ジミー・ロジャーズ_(カントリー歌手)
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ジミー・ロジャーズ
Jimmie Rodgers
ジミー・ロジャーズ(1931年)
基本情報
出生名ジェイムズ・チャールズ・ロジャーズ
James Charles Rodgers
別名歌うブレーキ係
生誕 (1897-09-08) 1897年9月8日
アメリカ合衆国 ミシシッピ州メリディアン
死没 (1933-05-26) 1933年5月26日(35歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク
ジャンルカントリーブルースフォーク
職業シンガーソングライター音楽家
担当楽器ボーカルアコースティック・ギターバンジョー
活動期間1927年 - 1933年
レーベルRCAビクター
共同作業者

ザ・テネヴァ・ランブラーズ

ザ・ランブラーズ

ルイ・アームストロング

ウィル・ロジャース

公式サイト ⇒www.jimmierodgers.com

ジミー・ロジャーズ(: Jimmie Rodgers、本名ジェイムズ・チャールズ・ロジャーズ : James Charles Rodgers、1897年9月8日 - 1933年5月26日)は、20世紀初期のアメリカ合衆国のカントリー音楽の歌手の一人。リズミカルなヨーデルで広く知られている。活躍したのは1927年から1933年と短く、35歳で早世したが、カントリー音楽の初期スーパースター達の中でも、「カントリー音楽の父」、「歌うブレーキ係」、「ブルーヨーデラー」などとも呼ばれている[1]
伝記ミシシッピ州メリディアンにあるロジャーズの誕生地を示す歴史標識
生い立ち

ロジャーズの生誕地はミシシッピ州メリディアンとされるのが通常である。しかし、ロジャーズがその人生の後半で署名した文書では、生誕地がアラバマ州ガイガーとなっている。ここは父方の祖父ツァチャリア(1820?99)の家があった場所である[2]。その文書の背景を調査した歴史家達、すなわちノーラン・ポーターフィールドやバリー・メイザーは、真の生誕地としてメリディアンの直ぐ北にあるパインスプリングスを当てている。

ロジャーズが6歳または7歳のときにその母エリザ(1868?1903)が死んだ。ロジャーズは3人兄弟の末っ子であり、その後数年間は、ミシシッピ州とガイガーに近いアラバマ州南西部にあった何人かの親戚の家で生活していた。ミシシッピ州ローダーデール郡デールビルの1900年国勢調査では、エリザ・ロジャーズ(旧姓ボーズマン)に既に7人の子供が居り、その内4人はこのとき生きていた。このとき、ジミーは下から2番目だった。おそらく7人の子供のうち6番目に生まれたと考えられる。父はアーロン・ロジャーズ(1855?1933)であり、モービル・アンド・オハイオ鉄道の保線主任であり、新しい妻と共にメリデァインに移ったので、ロジャーズも父と共に家に戻った。
演芸のキャリア

ロジャーズは幼いときから芸能に親しむようになり、その道に進むことの誘惑に抗しきれなくなっていた。13歳のときまでに2度、旅公演を組織して始めたが、父に連れ戻されることになった。父はロジャーズの最初の仕事として鉄道の給水係を与えた。その職にあっても鉄道労働者や放浪者から楽器の扱いを習った。季節労働者であるアフリカ系アメリカ人鉄道労働者の労働歌を聞くことも多かった[3]。数年後にはニューオーリンズ・アンド・ノースイースタン鉄道のブレーキ係になった。これは長兄のウォルターが、メリディアンとニューオーリンズの間を走る列車の車掌となり、それまでの職を回したものだった。

ロジャーズが27歳の1924年に結核を患った。一時的に鉄道の職を失うことになったが、同時に演芸の世界に戻るチャンスが与えられたことも意味していた。ロジャーズは旅公演の一座を組織してアメリカ合衆国南東部を回ったが、ハリケーンでテントを壊されて、家に戻るしかなくなった。フロリダ州マイアミでブレーキ係として鉄道員に戻ったが、結局病気のためにこの職を失うことになった。その後はアリゾナ州ツーソンに移り、サザン・パシフィック鉄道で転轍手として雇われた。この仕事は1年も続かず、ロジャーズ一家(この時までに妻のキャリーと娘のアニタがいた)は1927年初期にメリディアンに戻った。
成功ボブ・ウィルス・ブルーヨーデル第1オートリー・ブルーヨーデル第5

その年の後でロジャーズはノースカロライナ州アシュビルに行くことに決めた。4月18日午後9時半、ジミーとオーティス・カイケンドールが、アシュビルでは初のラジオ局WWNCで初めて演奏した。その数か月後にはテネシー州ブリストルからテネヴァ・ランブラーズというグループを採用し、そのラジオ局で「ジミー・ロジャーズ・エンタテイナーズ」という毎週の番組を持った。

1927年7月、ロジャーズのバンド仲間が、ビクタートーキングマシンの社長ラルフ・ピアがブリストルに来て地元ミュージシャンのオーディションを行うことを聞いてきた。ロジャーズと仲間は8月3日にブリストルに到着し、空の倉庫でピアのオーディションを受けた。ピアは翌日彼らのレコードを作ることに合意した。その夜、バンド仲間はレコードに何を入れるかを議論し、議論が白熱してバンドは解散した。ロジャーズは翌朝一人でレコーディングに赴いた。しかしテネヴァ・ランブラーズのメンバーであるクロード・グラントは、テレビのインタビューでこの解散について全く異なる理由を挙げていた。ロジャーズは幾らかのギターを販売するよう委託されていた。彼はギターを売ったが、そのギターを渡した店舗に金を払わなかった。グラントは、バンドメンバーがそれに合意できなかったのでバンドを解散したと語っていた[4]。8月4日水曜日、ジミー・ロジャーズがビクターに対して最初の演奏を行った。午後2時から4時20分まで続き、2曲が完成した。すなわち『兵士の恋人』と『眠れ赤子よ』である。この試験録音で、ロジャーズは100ドルを手に入れた。

このレコードは10月7日に発売され、そこそこの成功を収めた。11月、ロジャーズはさらに芸に力を入れることに決め、ピアと次のレコーディングを手配するためにニューヨークに向かった。ピアは再度レコーディングを行うことに合意し、二人はフィラデルフィアで落ち合った後に、ビクターのスタジオのあるニュージャージー州カムデンに移動した。このときに『ブルーヨーデル』、良く知られた題名は『テキサスのT』を含む4曲が録音された。その後の2年間で、このレコードは50万枚近く売れ、ロジャーズをスターダムに押し上げた。この後は、ピアとビクターが録音すると決めれば、いつでもどこでも公演するショーを完売にした[5]

その後の数年間、ロジャーズは忙しかった。コロンビア ピクチャーズの『歌うブレーキ係』に出演し[6]、国内あちこちでレコーディングを行った。アメリカ合衆国中西部を巡る赤十字社のツアーでは、ユーモア作家のウィル・ロジャースと旅した。1930年7月16日、ルイ・アームストロングのトランペット、その妻リル・ハーディン・アームストロングのピアノで『ブルーヨーデル第9』を録音した[7]

クレイトン・マクミチェンが作曲した歌、『禁酒が悪さをした』は、恐らくコロンビアとの著作権問題で発売されなかった。ジュアニタ・マクミチェン・リンチに拠れば、それは「当分の間あまりに議論を呼ぶ」とピアが考えた。録音マスターは別に保管され、その後紛失した。
後年

ロジャーズの最後から2番目の録音は1932年にカムデンで行われ、結核が進行していることが明らかだった。このときまでにツアーを行うことを諦めていたが、テキサス州サンアントニオでの毎週のラジオ番組に出演していた。『テキサスのT』がヒットしたときにそこに移っていた。レコードの売り上げから得た金でテキサス州カービルに家族のための大きな家を建てており、その場所は健康のためにも選んでいた。しかしじっとしているのはロジャーズの性分ではなく、常にツアーを行いレコーディングを行うことで、病気からの快復のチャンスが失われていった。


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