ジミー・スヌーカ
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ジミー・スヌーカ
2011年
プロフィール
リングネームジミー "スーパーフライ" スヌーカ
グレート・スヌーカ
ラニ・ケアロハ
ジミー・ケアロハ
本名ジェームズ・スヌーカ
ニックネームスーパーフライ
飛獣
褐色の野獣
褐色のアポロ
身長185cm
体重115kg(全盛時)
誕生日 (1943-05-18) 1943年5月18日
死亡日 (2017-01-15) 2017年1月15日(73歳没)
出身地 フィジー
スポーツ歴ボディビルディング
トレーナーディーン・ホー
フランキー・レイン[1]
デビュー1969年[2]
引退2015年[1][2]
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ジミー・スヌーカ(Jimmy Snuka、本名:James Reiher Snuka、1943年5月18日 - 2017年1月15日[3])は、フィジー出身のプロレスラー。跳躍力を活かしたハイフライ・ムーヴにより、スーパーフライ(Superfly)のニックネームを持つ[4]。日本では「飛獣」なる異名が付けられた[4]

娘のタミーナ・スヌーカ養子シム・スヌーカもプロレスラー。なお、第1次UWFに来日したジャック・スヌーカ(ココ・サモア)はジミー・スヌーカの弟を名乗ったが、単なるギミックで血縁関係はない[5]
来歴

少年期に故郷のフィジーからハワイに移住し、ボディビルディングで活動後[4]1969年にジミー・ケアロハ(Jimmy Kealoha)のリングネームでデビュー[2]。ハワイを経てアメリカ合衆国本土に渡り、太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)において、鍛え上げられた肉体美を持つベビーフェイスとしてキャリアを積む[2]1971年9月にはインディアンギミックのグレート・スヌーカ(Great Snuka)として日本プロレスに初来日[4]。スニー・ウォー・クラウドとのインディアン・コンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に出場した[6](同名義では全日本プロレスにも1974年11月に参戦している[7])。

1972年、ラニ・ケアロハ(Lani Kealoha)と名乗り、本来の出自である南洋系のアイランダー・ギミックでAWAに登場。イワン・コロフラリー・ヘニングラーズ・アンダーソンブラックジャック・ランザスーパースター・ビリー・グラハムダスティ・ローデス&ディック・マードックテキサス・アウトローズなど、ヒールのメインイベンターと対戦した[8]

その後、リングネームをジミー・スヌーカ(Jimmy Snuka)に定着させ、古巣のPNWを主戦場として活動。1974年2月19日にはPNWの本拠地オレゴン州ポートランドにてジャック・ブリスコNWA世界ヘビー級王座に挑戦、時間切れ引き分けの戦績を残す[9]。これが飛躍につながり[4]、以降もリッパー・コリンズブル・ラモスワイルド・アンガスジェシー・ベンチュラなどとの抗争を通して、PNWのフラッグシップ・タイトルだったNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を1977年まで通算6回獲得した[10]

1977年5月からはテキサスの東部地区に参戦。地区デビューして間もない同月20日、ヒューストンにてエル・ゴリアスからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取[11]。8月16日にはダラス、翌17日にはサンアントニオにて、ハーリー・レイスが保持していたNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[12]。同地区ではフォン・エリック・ファミリーと共闘し、キャプテンUSAアイアン・シークロード・アルフレッド・ヘイズオックス・ベーカーキラー・カール・クラップキラー・ブルックス、そして後に日本でタッグを組むこととなるブルーザー・ブロディとも対戦した[13]NWAミッドアトランティック時代(1981年)

1978年よりジム・クロケット・ジュニアNWAミッドアトランティック地区を主戦場に、初期は従前と同様のベビーフェイス、後にヒールとなって活動。リック・フレアーリッキー・スティムボートらとの抗争で一躍トップスターとなる[4]1979年9月1日には、12選手が参加したトーナメントの決勝においてスティムボートを破り、空位となっていたUSヘビー級王座を獲得した[14]。タッグ戦線ではポール・オーンドーフレイ・スティーブンスと組み、同地区認定のNWA世界タッグ王座にも戴冠[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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