ジミー・ウェッブ
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その他の同名の人物については「ジェームズ・ウェッブ」をご覧ください。

ジミー・ウェッブ
Jimmy Webb
ノルウェー・オスロ公演(2016年8月)
基本情報
出生名James Layne Webb
生誕 (1946-08-15) 1946年8月15日(77歳)
出身地 アメリカ合衆国
オクラホマ州ベッカム郡エルクシティ
ジャンルカントリー・ミュージックピアノ・ロックポピュラー音楽
職業シンガーソングライター、作編家
担当楽器ボーカルアコースティック・ギターピアノ
活動期間1965年 - 現在
レーベルエピック・レコード
リプリーズ・レコード
アサイラム・レコード
アトランティック・レコード
Real West Production
エレクトラ・レコード
Guardian Records
サンクチュアリ・レコード
The Jimmy Webb Music Company
Entertainment One Music
公式サイトjimmywebb.com

ジミー・ウェッブ(Jimmy Webb、1946年8月15日 - )は、アメリカ合衆国出身のシンガーソングライターピアニスト。本名はジェームズ・レイン・ウェッブ(James Layne Webb)[1]

ソロ活動と並行して作編家としても高い実績を誇り、同国を代表する作曲家として知られる。代表曲「恋はフェニックス」は、1940年から1990年までの放送頻度が世界3位(全米放送音楽協会しらべ)[2]2017年現在、作詞・作曲・オーケストレーション三つの部門でグラミー賞を受賞した唯一の人物でもある。1986年『ソングライターの殿堂』入りし、後に同会長職も務める[3]
経歴

1946年オクラホマ州エルクシティ生まれ[1]。父はバプテスト派の牧師だった。母の励ましでピアノとオルガンを習い、12歳の頃には父親の教会でオルガンを演奏。父がギター、母がアコーデオンで伴奏した[4]。保守的で宗教的な家庭だったのでカントリー音楽・白人ゴスペル音楽をラジオで聴くことを禁じられていた。

1950年代後半、音楽にめざめ、しばしば即興演奏し、讃美歌変奏曲を演奏した[4]。この時期、宗教歌を書くが[4]、ラジオできいたエルヴィス・プレスリーなどに影響された。1961年,14歳で初めてのレコード「Turn Around, Look at Me」(グレン・キャンベル)を買い、独特な声に引き込まれた[5]。1964年、家族で南カリフォルニアに引っ越し、大学で音楽を専攻。

1965年に母が亡くなり、父はオクラホマに帰ることにする。ウェッブはカリフォルニアに残り、音楽の勉強を続け、ロサンゼルスでソングライターのキャリアを模索した。父はウェッブの野望をとがめ、「歌を書くなんてお前、心がこわれてしまうぞ」と警告したが、ウェッブの決心が固いのを見て40ドルを渡し、「多くないが、これだけしかないんだ」と言ったと、ウェッブは後年回想している[5]

小さな音楽出版社で他人の音楽をアレンジする仕事をしたあと、モータウン・レコードの出版社ジョベッタ・ミュージックと作曲契約を交わす。ウェッブ作品初の商業レコーディングはスプリームスの「My Christmas Tree」だった。彼女たちの1965年のアルバム『Merry Christmas』におさめられた。

翌1966年、歌手・プロデューサーのジョニー・リヴァースと出会う。リヴァースはウェッブと出版契約を結び、「By the Time I Get to Phoenix」を1966年のアルバム『Changes』で録音する[6]
ブレイク

1967年、リヴァースは新グループ・フィフス・ディメンションのための曲をウェッブに依頼、彼らのデビュー作『Up, Up and Away』に5曲が提供される。タイトル曲「ビートでジャンプ」(Up, Up and Away)はトップ10になった。2作目のアルバム『The Magic Garden』も1967年に発売され、ウェッブ作品は「The Worst That Could Happen」を含む11曲だった[6]

1967年11月、グレン・キャンベルは「恋はフェニックス」をカバー、26位になり、すぐにポップ・スタンダードになった[7]。1967年のグラミー賞で「ビートでジャンプ」は主要2部門(「レコード・オブ・ザ・イヤー」と「ソング・オブ・ザ・イヤー」)を受賞、「ビートでジャンプ」と「恋はフェニックス」あわせて8つのグラミー受賞となった。

成功はジレンマとなった。洗練されたメロディーと編曲は大衆に愛されたが、彼はカウンター・カルチャーのサウンドに惹かれており、急速に時代との同調性をなくしていく[7]

1968年、『タイム』誌はウェッブ特集を組み「多様なリズム・構造の工夫・豊かなハーモニー」と書いた[2]

同年もフィフス・ディメンションの成功は続き、「ペイパー・カップ」と「カーペット・マン」がトップ40入り。

グレン・キャンベルは「ウィチタ・ラインマン」をミリオンにし、ジョニー・マエストロ&ザ・ブルックリン・ブリッジは「The Worst That Could Happen」をゴールド(50万枚)にした。後者は元はフィフス・ディメンションが録音していた[7]
独立

ウェッブは自身の事務所と出版社Canopyを設立。最初の作品はアイルランド系俳優リチャード・ハリスがウェッブ作品だけを歌ったアルバムで、ヒットした。収録曲の「マッカーサー・パーク(英語版)」は長く複雑な作品で、複数の楽章からなっており、アソシエイションが演奏するのを拒否した。同曲の7分21秒のハリスのバージョンは1968年6月22日に2位になる。

ハリスのアルバム『A Tramp Shining』は1年間ほどチャート上にあった。2人の次のアルバム『The Yard Went On Forever』も成功した。1968年のグラミー賞で「By the Time I Get to Phoenix」「Wichita Lineman」「MacArthur Park」で受賞[7]。1969年グレン・キャンベルはゴールド・アルバム『Galveston』と『Where's the Playground Susie』でウェッブ作品を歌った。

キャンベルとはGMのCM曲制作中に初対面。その際、ビートルズのような長髪のウェッブから挨拶を受けたキャンベルは、ギターから顔を上げ、ウェッブに向かって「髪を切れ」と言った[5]

1969年、アイザック・ヘイズが「恋はフェニックス」を、ウェイロン・ジェニングスが「マッカーサー・パーク」をカバーし、後者はグラミー奪取。年の暮れにテルマ・ヒューストン(英語版)のデビュー作『Sunshower』の作曲・編曲・録音をした[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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