ジギスモント・タールベルク
Sigismond Thalberg
基本情報
生誕 (1812-01-08) 1812年1月8日
スイス、ジュネーブ近郊のパキス
死没 (1871-04-27) 1871年4月27日(59歳没)
イタリア、ナポリ近郊のポジリポ
学歴ホッホ音楽院ピアノ科
ジャンルロマン派
職業作曲家、ピアニスト
ジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812年1月8日 - 1871年4月27日)は、19世紀スイス出身、ロマン派のピアニスト・作曲家。同時代者のフレデリック・ショパン、フランツ・リストなどと並んで、19世紀において最も傑出したピアノの名手の一人だった。オペラ、協奏曲、室内楽曲、歌曲なども残したものの、他人の作品を土台にした変奏曲や幻想曲の様式の作品が多いため従来は忘れられることが多かったが、「3本の手」と呼ぶ奏法など、後世の音楽に与えた影響は小さくない。
近年ではフランチェスコ・ニコロージ
らが彼の作品を取り上げている。タールベルクは1812年1月8日にスイス・ジュネーヴ近郊のパキスに私生児として生まれたらしい。フランクフルト・アム・マイン出身の両親の元に生まれたという誕生証明が残っているものの偽物と言われ、母はマリア・ジュリア・ウェツラー・フォン・プランケンシュテルン(ウェツラー男爵夫人)、父はオーストリアの名門貴族フランツ・ヨーゼフ・フォン・ディートリヒシュタイン伯爵とされている。幼時についてはほとんど知られていない。
タールベルク自身の話によれば、1824年の5月7日にベートーヴェンの交響曲第9番の初演を聞いているので、母が10歳の彼をウィーンに連れていったと推測される。子どもの頃の音楽教師の名は知られていないが、母自身が優れたアマチュア・ピアニストだったので、タールベルクに最初の音楽教育を施した可能性がある。 1826年、彼は作曲家・ピアニストのモシェレスについてロンドンで学んでいる。その当時のことを書いたモシェレスのメンデルスゾーン宛書簡によれば、すでに自力で大成するだけの能力をつけていたという。タールベルクの最初の公開演奏は14歳を数える1826年5月17日にロンドンで行われた。その後、フンメル、カルクブレンナー、ツェルニーなどのピアノの大家について指導を受けた。 1828年に彼は 《ウェーバーのオイリアンテによる幻想曲 Op.1》 を初めて出版した。1830年になると、ウィーンで作曲家メンデルスゾーン、ショパンに出会っている。ついで1830年代の初め、タールベルクはオーストリアの音楽理論家ジーモン・ゼヒターのもとで対位法を学んだ。これが 《幻想曲 Op.12》 などの作品に反映している。しかし作曲家ロベルト・シューマンの批判を受けたため対位法の使用を減らし、歓迎された。 1835年11月にパリに行き、11月16日にオーストリア大使ルドルフ・アポニー伯爵邸での私的演奏会で演奏、翌1836年1月24日にパリ音楽院の演奏会に参加し 《大幻想曲 Op.22》 を演奏した。ロッシーニやマイアベーアを含む優れた音楽家たちの喝采を浴びた。ショパンは批判的であったが、作曲家ベルリオーズは熱い賞賛を残している。当時の雑誌記事は「モシェレス、カルクブレンナー、ショパン、リスト、エルツは今もこれからも偉大な芸術家である。しかしタールベルクは他のこれまでのどんな人物と比べればいいのか分からない新しい芸術を創造した。
少年期
デビュー