この項目では、イングランドの女王について説明しています。その他の用法については「ジェーン・グレイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ジェーン
Jane
イングランド女王
在位1553年7月10日 - 19日
出生1537年10月12日?
イングランド王国、レスターシャー、ブラッドゲイト・マナー
死去1554年2月12日 (16歳没)
イングランド王国、ロンドン塔、タワー・グリーン
埋葬
イングランド王国、ロンドン塔、セント・ピーター・アド・ヴインキュラ礼拝堂
配偶者ギルフォード・ダドリー
王朝テューダー朝
父親初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ
母親フランセス・ブランドン
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ジェーン・グレイ(英: Jane Grey、1537年10月12日? - 1554年2月12日)は、16世紀中頃のイングランドの女王(在位:1553年7月10日[1] - 19日)。異名に九日間の女王(ここのかかんのじょおう、Nine-Day Queen)がある。
数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位したが、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。そうした経緯から、イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(Queen Jane、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んできた。ジェーンを正統なイングランド君主とはみなさない史家や学者も少なくないが、今日のイギリス王室はジェーンをテューダー朝第4代の女王として公式に歴代君主の一人に数えている[2]。
父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン。母方の祖母がヘンリー8世の妹でプロテスタントのメアリー・テューダーだったことがジェーンの王位継承権の根拠となった。目次 ジェーンの血統に着目したウォリック伯(のちのノーサンバランド公 ジョン・ダドリー)は、政敵サマセット公 エドワード・シーモア(エドワード6世の母方の伯父)に反逆の汚名を着せ処刑した後、自分の息子ギルフォード・ダドリー[3]とジェーンを結婚させた。そうして、王位継承のライバルとなるヘンリー8世の子メアリーがカトリックであることを利用し、熱烈なプロテスタントのエドワード6世を説き伏せ、病床の国王から自分の死後ジェーンを即位させることを指示する勅令を得た。ノーサンバランド公の最終目的は、ジェーンとギルフォードの息子(ノーサンバランド公の孫)を王位につけることにあったという。 エドワード6世が死去すると、ノーサンバランド公はジェーンの即位を宣言したものの、陰謀を察知したメアリーが逃亡し[4]、身柄を拘束できなかった。そのためメアリー派の反攻を許すこととなり、1553年7月19日にサフォークでメアリーが即位を宣言、ジェーンと夫ギルフォードらが逮捕された。ついでギルフォードの兄弟であるジョン、アンブローズ、ロバート、ヘンリーらダドリー一族も逮捕された。 その後、ジェーンはロンドン塔幽閉を経て、1554年2月12日、夫ギルフォードとともに斬首された。王位に就いたメアリーは当初、ジェーンの処刑に躊躇したと言われるが、ジェーンを処刑しなければメアリーと皇太子フェリペとの婚約を解消するというスペインからの申し入れを受けて、処刑を決断したという[5]。また、メアリーはプロテスタントの信者であったジェーンに対し、カトリックに改宗すれば命を助けるとの温情を示したが、ジェーンは毅然として改宗を拒んだとも伝えられる。なお、ジェーンが処刑された1554年2月は、ジェーンを王位に即けることを要求したワイアットの乱が発生した月でもあり、ジェーンの処刑はこの乱の影響もあったと考えられている。 処刑後、遺体は夫ギルフォードとともにセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂(Chapel Royal of St. Peter ad Vincula
1 来歴
2 系図
3 参考文献
4 文学・フィクション
4.1 小説
5 補注
6 外部リンク
来歴
系図
ヘンリー7世
マーガレット ヘンリー8世 メアリー
スコットランド王
ジェームズ5世 マーガレット メアリー1世 エリザベス1世 エドワード6世フランセス
スコットランド女王
メアリー1世 ヘンリー ジェーン・グレイ