ジェームズ2世_(イングランド王)
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ジェームズ2世
James II
イングランド国王
スコットランド国王

在位1685年2月6日 - 1688年12月1日
戴冠式1685年4月23日
別号アイルランド王
グレートブリテン王(非公式)
ノルマンディー公[1]

出生1633年10月24日
イングランド王国セント・ジェームズ宮殿
死去1701年9月16日
フランス王国サン=ジェルマン=アン=レー城
埋葬 フランス王国、サン=ジェルマン=アン=レー城
配偶者アン・ハイド
 メアリー・オブ・モデナ
子女一覧参照
家名ステュアート家
王朝ステュアート朝
父親チャールズ1世
母親ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス
サイン
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ジェームズ2世(James II, 1633年10月24日 - 1701年9月16日、在位:1685年2月6日 - 1688年)は、イングランドスコットランドアイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ7世、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ2世。3王国にとってジェームズは、歴史上最後のカトリック信仰を有する国王となった。

ウィリアムとメアリーでなくジェームズこそ正統なる王であるという人々はジャコバイト[注釈 1]と呼ばれ、ジャコバイト運動はたびたび名誉革命体制イングランドを脅かした。ジェームズの死後、ジャコバイトはジェームズの息子ジェームズ老僭王を推戴して活動を続けた。

かつてジェームズ7世/2世は、イギリス史のなかでカトリック絶対王政を目論んだ悪役として描かれていたが、1970年代の歴史学界の変化、および名誉革命300周年を迎えた1989年前後の研究などにより、従来の悪役像を否定する方向にシフトしつつある。
生涯ジェームズが生まれたセント・ジェームズ宮殿16世紀ヘンリー8世によって建造されたもので、ロンドン市内の最も古い宮殿のひとつである
少年期

1633年、チャールズ1世フランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアとの間に生まれた。兄にチャールズ2世、弟にグロスター公ヘンリー、姉にオランダ総督オラニエ公ウィレム2世メアリー・ヘンリエッタ、妹にエリザベスオルレアン公フィリップ1世ヘンリエッタ・アンがいる。フランス王ルイ14世は母方の従弟で、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世は甥に当たる。

1640年、7歳の時に清教徒革命イングランド内戦)が始まると、一家で王党派の拠点オックスフォードに移り、その最中の1644年、11歳でヨーク公に叙された。内戦は国王側の敗北に終わり、オックスフォードも1646年に陥落した。ジェームズはセント・ジェームズ宮殿に監視つきで幽閉されたが、幾度も脱出を試みた。1648年、15歳のジェームズは長老派の一人コロネル・バンプフィールドの助力を得て、女装してオランダハーグへと逃れた。

1649年に父は議会派に処刑され、王党派はジェームズの兄チャールズ2世を次期国王に推した。チャールズはスコットランドとアイルランドでは王として認められ、スコットランドのスクーン1651年に戴冠した。しかし共和政イングランドはステュアート家を敵視しており、イングランド王位を得ることはかなわなかった。さらにオリバー・クロムウェルによってスコットランドは制圧され、ステュアート一族はフランスに亡命した。
亡命時代

フランスに渡った後、ステュアート一家はヨーロッパ各地を転々とした。チャールズとジェームズの兄弟は、まずフランスでテュレンヌ将軍のもとで軍人として生計を立て、ジェームズはフロンドの乱でテュレンヌの軍に合流して反乱軍と戦った。続いてジェームズ23歳の1656年、2人は生活のためスペイン軍指揮官のコンデ公ルイ2世について各地を転戦、フランス・スペイン戦争でジェームズはスペイン領ネーデルラントでフランス軍と交戦、1658年の砂丘の戦いでコンデ公の軍に加わり、テュレンヌ率いるフランス軍と交戦した。テュレンヌやコンデ公は、ジェームズの軍人としての才能を高く評価している。

兄弟は復位の可能性を求めて列強の国々を巡ったが、三十年戦争などで疲弊したヨーロッパ諸国に兄弟を助ける余力などなく、むしろ護国卿政イングランドと友好関係を築こうとさえしていた。最初の妃アン・ハイド。ジェームズが即位する前に死去したが、彼女の所生の2王女メアリーアンは名誉革命でジェームズが廃位された後にイングランド女王として次々に即位した。

1660年にクロムウェルの死去に伴いイングランド護国卿政が瓦解すると、チャールズ2世はブレダ宣言を発してイングランド王位に即き、ジェームズも故国の土を踏んだ。兄チャールズ2世には庶子は多くても嫡出子がなく、ジェームズが推定王位継承者となった。1660年9月、26歳のジェームズは兄の腹心のエドワード・ハイドの娘アンと結婚した。ハイドは後にクラレンドン伯爵に叙されるが当時はまだ平民であり、イギリスではこのアンが平民の娘として次代の王位継承予定者に嫁した初例となった[注釈 2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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