この項目では、フランクリン・ルーズベルトの長男について説明しています。その他の用法については「ジェームズ・ルーズベルト (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ジェームズ・ルーズベルト
James Roosevelt
アメリカ合衆国下院
カリフォルニア州カリフォルニア州第26議員選挙区
任期
1955年1月3日 ? 1965年9月30日
前任者サム・ヨーティ
ジェームズ・ルーズベルト2世(James Roosevelt II, 1907年12月23日 - 1991年8月13日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの長男。 1907年、ニューヨーク、イーストサイド36丁目125番地 (125 East 36th Street) で生まれた。ポトマック・スクール、ワシントンD.C.のナショナル・カテドラル・スクール (National Cathedral School)、グロトン・スクール
生い立ち
その後、ボストン大学法科大学院(英語版)に入学すると共にボストンの保険代理店ビクター・デ・ジェラード (Victor De Gerard) の保険販売員となった。この仕事が好調だったため、ルーズベルトはまもなくして大学院を辞めた。1932年、ジョン・A・サージェント (John A. Sargent) と提携し、保険代理店ルーズベルト&サージェント (Roosevelt & Sargent) を開業した。ルーズベルトは同社の社長として約50万ドルの財産を築いたが、1937年にはホワイトハウスでの仕事のため、半分の所有権を保持し、辞任した[2]。 1924年、民主党全国大会
政治の世界へ
ジェームズ・ルーズベルトはジョセフ・P・ケネディの愛弟子だった。1934年、禁止後のウイスキーの輸入市場を得るために、イギリスに向かう。海上保険の利益確保やナショナル・グレイン・イースト社事件(National Grain Yeast Corp. affair, 1933年 - 1935年)など、ルーズベルトによるいくつかの挑戦的な事業は、いずれもケネディによる支援を受けてのものだった。ナショナル・グレイン・イースト社は密造酒の製造販売に関与していると疑われており、当時の財務長官ヘンリー・モーゲンソウは同社の排除をジェームズに命じないのであれば職を辞するつもりであるとフランクリンを脅したという[3]。また、ジェームズ・ルーズベルトもケネディの在英大使選出などに対する支援を行った[4]。
1936年11月、同年の大統領選挙の直後、ジェームズはそれまで軍人として務めたことがなかったにもかかわらず海兵隊中佐に任命され、いくらかの論争を引き起こした。12月、ブエノスアイレスでのパン=アメリカ会議に父フランクリンの軍事顧問として同行した。1937年1月6日、正式に大統領行政補佐(administrative assistant to the President)に任命された。1937年7月1日、大統領秘書に任命された[1]。1937年10月には、18連邦機関担当ホワイトハウス調整官(White House coordinator for eighteen federal agencies)なる役職に就任した。
1936年4月、ルイス・ハウ(英語版)の死により、非公式に大統領秘書となった[2]。