ジェームズ・ルーズベルト
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この項目では、フランクリン・ルーズベルトの長男について説明しています。その他の用法については「ジェームズ・ルーズベルト (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ジェームズ・ルーズベルト
James Roosevelt


アメリカ合衆国下院
カリフォルニア州カリフォルニア州第26議員選挙区
任期
1955年1月3日 ? 1965年9月30日
前任者サム・ヨーティ(英語版)
後任者トーマス・ M・リース(英語版)
カリフォルニア州民主党(英語版)総裁
任期
1946年7月21日 ? 1948年8月8日
アメリカ合衆国大統領秘書(英語版)
任期
1937年 ? 1938年
大統領フランクリン・ルーズベルト
前任者ルイス・ハウ(英語版)
後任者マーヴィン・マッキンタイア(英語版)

個人情報
生誕ニューヨーク州ニューヨーク
死没ニューポートビーチ
政党民主党
兵役経験
所属国アメリカ合衆国
所属組織 アメリカ海兵隊
軍歴1936?1959 USMCR(英語版)
最終階級 准将
部隊マリーン・レイダース第2大隊
指揮マリーン・レイダース第4大隊
戦闘第二次世界大戦

マキンの戦い

沖縄戦

ジェームズ・ルーズベルト2世(James Roosevelt II, 1907年12月23日 - 1991年8月13日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの長男。
生い立ち

1907年、ニューヨーク、イーストサイド36丁目125番地 (125 East 36th Street) で生まれた。ポトマック・スクール、ワシントンD.C.のナショナル・カテドラル・スクール (National Cathedral School)、グロトン・スクール(英語版)に通った。グロトンでは、ボートレース、サッカーをやり、4年次には監督生を務めた。1926年の卒業後はハーバード大学に進学し、ボートレースを続ける傍ら、父や父の従兄弟セオドア・ルーズベルトと同じくシグネット・ソサエティ(英語版)、ハスティ・パディング・クラブ(英語版)、フライ・クラブ(英語版)などの学生組織に参加した。1930年にハーバード大学を卒業し、この際にクラスの終身出納係(permanent treasurer)に選出された。[1]

その後、ボストン大学法科大学院(英語版)に入学すると共にボストンの保険代理店ビクター・デ・ジェラード (Victor De Gerard) の保険販売員となった。この仕事が好調だったため、ルーズベルトはまもなくして大学院を辞めた。1932年、ジョン・A・サージェント (John A. Sargent) と提携し、保険代理店ルーズベルト&サージェント (Roosevelt & Sargent) を開業した。ルーズベルトは同社の社長として約50万ドルの財産を築いたが、1937年にはホワイトハウスでの仕事のため、半分の所有権を保持し、辞任した[2]
政治の世界へ

1924年、民主党全国大会(英語版)に参加した。1928年、ハーバード大学の同級生達と民主党大統領候補アル・スミスを支援した。1932年、父フランクリンのマサチューセッツ州選挙陣営を率い、同年中に約200回もの占拠演説を実施した。フランクリンは予備選挙ではスミスに敗れたが、1932年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利した。1933年に禁酒令の廃止のための憲法制定会議にはマサチューセッツ州代表として出席した。

ジェームズ・ルーズベルトはジョセフ・P・ケネディの愛弟子だった。1934年、禁止後のウイスキーの輸入市場を得るために、イギリスに向かう。海上保険の利益確保やナショナル・グレイン・イースト社事件(National Grain Yeast Corp. affair, 1933年 - 1935年)など、ルーズベルトによるいくつかの挑戦的な事業は、いずれもケネディによる支援を受けてのものだった。ナショナル・グレイン・イースト社は密造酒の製造販売に関与していると疑われており、当時の財務長官ヘンリー・モーゲンソウは同社の排除をジェームズに命じないのであれば職を辞するつもりであるとフランクリンを脅したという[3]。また、ジェームズ・ルーズベルトもケネディの在英大使選出などに対する支援を行った[4]

1936年11月、同年の大統領選挙の直後、ジェームズはそれまで軍人として務めたことがなかったにもかかわらず海兵隊中佐に任命され、いくらかの論争を引き起こした。12月、ブエノスアイレスでのパン=アメリカ会議に父フランクリンの軍事顧問として同行した。1937年1月6日、正式に大統領行政補佐(administrative assistant to the President)に任命された。1937年7月1日、大統領秘書に任命された[1]。1937年10月には、18連邦機関担当ホワイトハウス調整官(White House coordinator for eighteen federal agencies)なる役職に就任した。

1936年4月、ルイス・ハウ(英語版)の死により、非公式に大統領秘書となった[2]

当時から父フランクリンの最も重要な相談相手とされ、『タイム』誌は、ジェームズが合衆国大統領補佐(Assistant President of the United States)とみなされる可能性を示唆した[2]

1938年7月、彼が保険会社に便宜を図ろうと政治的立場を悪用していたという申し立てがあった。これを受けてルーズベルトは所得税の確定申告を公表し、NBCの放送と『Collier's(英語版)』誌の記事でこの申し立てを否定した。この事件が『サタデー・イブニング・ポスト』紙のアルバ・ジョンストン(英語版)により報じられた後、「Jimmy's Got It」事件という通称で広く知られた。1938年11月、ホワイトハウスを辞職する[1][5]
ハリウッド

その後、ハリウッドに引っ越して映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンの下で週給750ドルを受ける経営補佐となり、1940年11月までそこで働いた。1939年にペニー・アーケード用の短編映画制作会社グローブ・プロダクションズ社(Globe Productions)を設立するが、1944年にはルーズベルトのアメリカ海兵隊入隊のために売却されている[1]。ルーズベルトは同社において映画『Pot o' Gold(英語版)』の製作に関わったほか、英国映画『Pastor Hall(英語版)』の配給を行った。

ハリウッドにいる間、ルーズベルトは映画界の大御所ジョセフ・M・シェンクと密接に関わるようになった。ルーズベルトはシェンクに対して民主党からの資金援助を行わせており、また逆にシェンクから映画の資金を借りることもあった。彼が投獄されると、父フランクリンを通じて恩赦を行わせようとしたが、再びヘンリー・モーゲンソウが反対した。後にルーズベルトはこの件について「Stories appeared that I was mixed up with Mafia mobsters.」と書いている。[6]
軍歴第二次世界大戦中のルーズベルト中佐

第二次世界大戦勃発後の1939年10月、ルーズベルトは1936年に与えられた海兵隊中佐の職を辞した後、改めて海兵隊予備役(英語版)大尉に任官し、1940年11月に現役へ編入された。

1941年4月、フランクリン・ルーズベルト大統領は来るべき米国参戦へ向けた外交上の根回しのため、ジェームズ・ルーズベルトに対し秘密裏に外交使節として世界各国を訪問するよう命じた。この任務において、ジェームズは?介石ファールーク1世ゲオルギオス2世などに面会した。


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