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出典検索?: "ジェームズ・ヘップバーン" 第4代ボスウェル伯爵
ジェームズ・ヘップバーン
James Hepburn
スコットランド王配
ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン
別称号ボスウェル伯
オークニー公爵
ファイフ侯爵
出生1535年
スコットランド王国、エディンバラ
死去1578年4月14日
デンマーク=ノルウェー、ドラグスホルム
配偶者アンナ・スロンドセン(英語版)
ジーン・ゴードン(英語版)
スコットランド女王メアリー
父親ボスウェル伯パトリック・ヘップバーン(英語版)
母親アグネス・シンクレア
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第4代ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘップバーン(James Hepburn, 4th Earl of Bothwell, 1535年 - 1578年4月14日)は、スコットランド女王メアリーの3人目の夫(王配)。 ジェームズはスコットランドの名門貴族ボスウェル伯家に生まれた。曾祖父はスコットランド国王の執事であり、艦隊司令部の総督・エディンバラの高等行政官・国境地帯の長官を兼任した。祖父はこれらの役職を引き継いだが、イングランドとの戦いで若くして亡くなったという。父パトリックは素行が悪く、多額の借金を抱え、報酬のいいイングランドに雇われることもあったという。また、国境地帯の盗賊団と一仕事したため、投獄されたこともあったらしい。その後はイングランドに亡命したが、王太后メアリー・オブ・ギーズの恩赦を受けて職務にも復帰し、宮廷に迎え入れられた。その後1556年、盗賊団との小競り合いで45歳で命を落としたという。 パトリックは、当時未亡人となっていたメアリー・オブ・ギーズと結婚できるかもしれないと勝手に思い込み、1543年の秋に妻のアグネス・シンクレアと離婚した。そのため、ジェームズは7歳の時に大叔父のマリー大司教に引き取られ、妹のジャネットは母アグネスに引き取られた。彼は大変な読書家で、兵法書や軍事史の知識をことごとく習得したという。また、フランス語やイタリア語も習得し、読み書きさえおぼつかない有様だった当時の無教養な他のスコットランド貴族たちとは大きな差があった。自然科学にも深い関心を寄せていたという。 ジェームズは自ら騎馬隊の装備を整え、訓練もおこない、絶え間なく進入を繰り返すイングランドの軍隊や盗賊団を国境で何度も撃退した。イングランドの兵士の襲撃に常におびえていたエディンバラの住民たちは、もっとジェームズに権限を与えて欲しいと陳情するほどであった。そのためメアリー・オブ・ギーズはジェームズが22歳の頃、国境のハーミテージ砦の指揮官に任命した上、地域一帯の指揮権を与えた。この時ジェームズは父の死により第4代ボスウェル伯となっていた。 メアリー・オブ・ギーズはこう書いている。ボスウェルを選んだのは、彼が貴族達の中で抜きん出ていたからです。彼にはスコットランドの防衛と敵への攻撃に関する全権限をゆだねました。まだ若いのにイングランドを相手に勇敢な戦いぶりを見せ、その優れた判断力や決断力には目をみはるものがありました。 彼の兵力はイングランドよりも相当劣っていたにも拘らず、巧みな戦術で勝利し、敵から軍資金を奪った。また、イングランド軍の陣営に奇襲をかけて、総司令官に重傷を負わせるほどの働きを見せている。 1560年に夫フランソワ2世と死別して未亡人となった女王メアリーは、1561年8月20日に帰国した。女王の帰国に当たって、ボスウェル伯は海軍司令官として万全を尽くした。当時のスコットランドの実力者だったマリ伯ジェームズ・ステュアートは、なんとかボスウェルを会衆の仲間に引き入れようと何度も説得を試みたが、彼はあくまでもメアリーに忠誠を誓い、決してこの誘いに乗ろうとはしなかった。このため、マリ伯とボスウェルは終生にわたって激しく対立することとなった。また、マリ伯は影で手を回して、できるだけボスウェルをエディンバラから遠ざけ、枢密院に影響力を持てないようにした。権謀術数を駆使するマリ伯に比べ、どちらかというとボスウェルは行動型のタイプで、自分が主体的に関わらない場合、宮廷での貴族たちの謀略を嫌っていたという。 1565年7月29日、女王メアリーとダーンリー卿ヘンリー・ステュアートが結婚したが、8月1日にはエリザベス1世からの援助を取り付けたマリ伯が反乱を起こした。
生涯
ジェームズの生い立ち
国境防衛
女王の帰国
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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