ジェームズ・フィッツジェームズ_(初代ベリック公)
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ジェームズ・フィッツジェームズ
James FitzJames
初代ベリック公
初代リーリア・イ・セリカ公
初代フィツ=ジャメ公

在位ベリック公:1695年 ? 1734年
リーリア・イ・セリカ公:1707年 ? 1734年
フィツ=ジャメ公:1710年 ? 1734年

出生 (1670-08-21) 1670年8月21日
フランス王国ムーラン
死去 (1734-06-12) 1734年6月12日(63歳没)
神聖ローマ帝国、フィリップスブルク(英語版)
配偶者オノラ・ド・バー
 アン・バルクレー
子女一覧参照
家名フィッツ=ジェームズ家
父親イングランド王ジェームズ2世
母親アラベラ・チャーチル
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ベリック公爵、ゴドフリー・ネラー画、1687年フェリペ5世からリーリア公爵位を授けられるベリック公、ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル

ジェームズ・フィッツジェームズまたはジャック・フィツ=ジャメ・ド・ベリック(英語:James FitzJames, 1st Duke of Berwick, フランス語:Jacques Fitz-James de Berwick, 1670年8月21日 - 1734年6月12日)は、フランスの軍人でフランス陸軍元帥を務めた。

イングランド王族であるヨーク公ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ2世)と愛妾アラベラ・チャーチルの第2子としてムーランで誕生した。異母姉にメアリー2世アン、異母弟にジェームズ・フランシス・エドワード、異母妹にルイーザ・マリア・テレーザがいる。マールバラ公ジョン・チャーチルは母方の叔父に当たる。
生涯

カトリック教徒として育てられたジェームズは、神学校で教育を受けた後、軍人の道を選んだ。1686年に行われたロレーヌ公シャルル5世指揮下で大トルコ戦争に従軍、1686年ハンガリーの都市ブダ包囲戦に参加した後イングランドへ帰国、翌1687年、父によってベリック公、ティンマス伯、ボズワース男爵(全てスコットランドの地名にちなむ)を授爵された。同年にハンガリーへ戻り、モハーチの戦いに参加した。再びイングランドへ帰国するとポーツマス知事及びガーター騎士にされたが、1688年名誉革命で父と共にその地位を追われた。

大陸へ逃れた後は父と共にウィリアマイト戦争ボイン川の戦いジャコバイトを指揮したが敗退している。最終的にフランスへ亡命しフランス軍人となり、大同盟戦争に従軍した。1693年ネールウィンデンの戦いでイングランド側の捕虜となり、フランス側捕虜となったイングランドの将軍オーモンド公ジェームズ・バトラーとの捕虜交換で解放された。

軍人としてベリック公は高い能力、勇気、高潔さゆえに尊敬された。スペイン継承戦争では南ネーデルラント戦線に加わり1702年ブーフレール1703年ヴィルロワ公の下で従軍、翌1704年2月には指揮権を与えられスペインに向かい、同盟側のポルトガルに攻め入り同盟軍の侵攻を阻止した。しかし、同盟軍に奪われたジブラルタル奪還を主張したスペイン王フェリペ5世の要請を無視したため、フェリペ5世の祖父でフランス王ルイ14世の命令でフランスへ召還、カミザールの乱鎮圧に回され1705年10月にイタリア方面に派遣された。

1706年1月にニースを降伏させた戦功で2月に陸軍元帥とされ、再びスペインに赴き同盟軍と交戦、6月に一時マドリードを奪われフェリペ5世と共にブルゴスへ撤退するが8月に奪還、カルタヘナも奪還してフランス優位に持ち直した。


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