ジェームズ・ヒルトン
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ジェームズ・ヒルトン
誕生1900年9月9日
ランカシャー
死没 (1954-12-20) 1954年12月20日(54歳没)
カリフォルニア州ロングビーチ
職業小説家、脚本家
国籍 イングランド
代表作チップス先生さようなら
主な受賞歴ホーソーンデン賞
アカデミー賞
ウィキポータル 文学
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ジェームズ・ヒルトン(James Hilton, 1900年9月9日 - 1954年12月20日)は、イングランド小説家。『失われた地平線』、『チップス先生さようなら』といったベストセラーが有名で、脚本家としてアカデミー賞を受賞したこともある。『失われた地平線』に登場する「シャングリラ」は理想郷の代名詞としても広く知られる。
生涯

ヒルトンはランカシャーのリー(Leigh)で生まれた。父親はロンドンのウォルサムストウ(Walthamstow)にあるチャペル・エンド・スクールの校長ジョン・ヒルトンで、『チップス先生さようなら』のチッピング(チップス)先生のキャラクター造型の着想を与えた1人である(ちなみに『チップス先生』の出てくるウィルキンソン先生の名前はヒルトンの生まれたウィルキンソン通りから取られている)。ケンブリッジのレイズ・スクール(またはリーズ・スクール。The Leys School)に通い、そこが『チップス先生』の舞台になったと言われる。チッピング先生のモデルと言われるW・H・バルガーニーはレイズ・スクールの教師で、バルガーニーが管理していた隔週発刊の「レイズフォートナイトリー」(Leys Fortnightly)にヒルトンの最初の短編とエッセイが掲載された。

ケンブリッジ大学クライスツ・カレッジ在学中に、アイリッシュ・インディペンデント(英語版)紙の主筆と知遇を得て週2回の記名寄稿を始め、マンチェスター・ガーディアン紙などにも文芸評論を載せるようになる。17歳の時に執筆した処女長編『キャサリン自身』を1920年19歳の時に出版。卒業後は就職難のために上2紙などの新聞や雑誌に記事や書評を寄稿して生計を立てながら小説の執筆を続け、『今宵ぞさらば』『繰り返し日歩』で一部の批評家には認められつつも、 文名を高めるには至らなかった。1933年のブリティッシュ・ウィークリー誌のクリスマス特別号から連載した中編『チップス先生さようなら』が、アメリカのアトランティック・マンスリー(英語版)誌に転載されて好評となり、1934年6月に単行本化されてベストセラーとなった。またこれにより旧作の『失われた地平線』『鎧なき騎士』も評価され、『失われた地平線』はホーソーンデン賞(Hawthornden Prize)を受賞した。

『失われた地平線』と『チップス先生さようなら』を書いたのはウッドフォード・グリーン(Woodford Green)のオーク・ヒル・ガーデンズ(Oak Hill Gardens)にある平凡なセミ・ディタッチト・ハウス(Semi-detached。二軒一棟の家)に住んでいた時だった。この家は今も残っていて、ヒルトンが住んでいたことを示すブルー・プラークがある。
アカデミー賞受賞

1935年に作品の映画化に関わるために渡米し、1937年には家族とともに移住しハリウッド近くに住んだ。その後執筆した『私たちは孤独ではない』『忘れえぬ日々』などがベストセラーとなる。1942年には、映画『ミニヴァー夫人』で、ジェーン・ストルーザー(Jan Struther)らとともにアカデミー脚色賞を受賞した。CBSラジオ(CBS Radio)の『ホールマーク劇場』(The Hallmark Playhouse、1948年 - 1953年)のホストも勤めた。

ヒルトンは2度結婚した。最初の妻はアリス・ブラウン、2番目の妻はガリーナ・コピネック(Galina Kopineck)だった。趣味は犬の飼育と登山で、アルザシアン犬を飼っていた。また音楽を好み、一時はピアノ演奏家になろうかと思うほど力を入れていた。1954年、カリフォルニア州ロングビーチで、肝細胞癌により死去した。
作品
小説

ヒルトンはサマセット・モームを礼賛し、また小説家は、舞台が「テネシー州であろうと、チンブツクーであろうと、チベットであろうと」「なによりもまず物語を、どうか語ってもらいたいものである」と語る[1]文学観を持っていた。


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