ジェームズ・バートン
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったくありません。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2024年4月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2024年4月)
出典検索?: "ジェームズ・バートン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL
ジェームズ・バートンジェームズ・バートン(James Burton, 1939年8月21日 - )は、アメリカのギタリスト。ルイジアナ州のミンデンの生まれ。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第20位、2011年の改訂版では第19位。
プロフィール幼い頃からギターに触れ、ルイジアナ・ヘイライドを目指すようになる。
10代中ごろからプロのギタリストとして活動を始め、1957年にデール・ホーキンス
が発表した「スージーQ」で一躍注目される。この時、まだ18歳であった。特徴的なギター・リフもジェームズが考えたもので、ほとんどの部分をバートンが作曲したと言ってもよい。
その後、ボブ・ルーマンと組んだが、その公演でリッキー・ネルソンの目に留まり、ネルソンのバンドで活躍する。ネルソン宅に1年間ほど居候したこともあるほど個人的にも仲がよかったが、次第に「ネルソンばっかりは嫌だ」として、バンドを脱退。その代わりにジョー・オズボーンを後任として紹介した。
その後、エルヴィス・プレスリーのTCBバンド・リーダーに任命され、1969年から1977年までのエルヴィスのステージのリード・ギターを勤めた。エルヴィスはジェームズに他のメンバーの人選も任せたため、ジェームズはセッション仲間であるジェリー・シェフ(ベース)やグレン・ハーディン(ピアノ)を推薦した。ただし、1969年のステージではピアノはラリー・マホーバラックだった。エルヴィスからは「最もすごいギタリストの1人」と評されている。TCBバンドはステージ専用であったが、ジェームズのみスタジオ録音にも参加した。このエルヴィス中心の活動の合間にジョニ・ミッチェルの『バラにおくる』(1972年)、グラム・パーソンズの『GP』(1973年)及び『グリーヴァス・エンジェル』(1974年)といった作品へのセッション参加などの仕事をした。
エルヴィスとスタジオにいた時、バートンはフェンダー社が「使って欲しい」と送ってきたギターを開封していた。その中にジョージ・ハリスンが使った事で有名なオール・ローズ・テレキャスターがあった。ジェームズは重くて音も気に入らなかったが、エルヴィスがそれを見て「すごく立派なギターだな」と感心した。ジェームズが手渡すとエルヴィスもあまりの重さに驚愕したという。ジェームズはフェンダーに断ると、エルヴィスに進呈すると言ったが、エルヴィスもこれを断った。さらにチップ・ヤングに譲ろうとしたが、チップもこれを断った。
エルヴィスの死後はジョン・デンバーやエルヴィス・コステロ等と組んで活動した。
現在でも「エルヴィス・イン・コンサート」で、エルヴィスの歌に合わせて70年のオリジナル・メンバーたちと演奏を続けている。
現在、バートンが使用しているのは3ピックアップの「ジェームズ・バートン・テレキャスター」である。一般のテレキャスターと違い、リア・ピックアップはブリッジ・プレートにマウントされず、すべてボディに直接取り付けられている。そのため、ブリッジ・プレートはオリジナルの形状となっており、ピックアップは金属製ではなく、樹脂製のカバーが取り付けられている。ブラック&ゴールド・ペイズリー、ファイヤー・ペイズリーなど、ペイズリー柄を奇抜にアレンジした塗装である。ボディにはスワンプ・アッシュやバスウッドなど軽い材が使われている。
特徴
ミスター・テレキャスターとの異名を持つ、テレキャスター使い。
バンジョー用の金属製のフィンガー・ピックを用いて演奏するチキン・ピッキングを得意とする。
他にペダル・スティール・ギターそっくりの音色や回路を改造してテレキャスターらしからぬ音色など様々なスタイルを持っている。
エルヴィス・プレスリーのバンド参加時(69年コンサート)はアップル・レッドの53年製テレキャスターを使っていたが、70年にペイズリー柄のギターを使い始める。フェンダーから供与されたこのギターを見たプレスリーが「とてもかっこいいギターじゃないか。毎晩そのギターで演奏してくれよ」と気に入ったことから以後、愛用するようになった。ペイズリー・テレキャスターは2年間の限定生産であり、ジェームズが使っていたのは69年製だったが、ジェームズはこれを数十本所有しており、中には半分だけ赤く塗ったものもある。
前述の通り、ステージでは69年ペイズリーを使用していたが、スタジオでは常に53年テレキャスターを使用していた。
次ページ記事の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶしWikipedia
Size:11 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef