Sir
James Chadwick
ジェームズ・チャドウィック
ジェームズ・チャドウィック(circa 1945)
生誕 (1891-10-20) 1891年10月20日
イギリス イングランド チェシャー ボリントン
ノーベル賞受賞者
受賞年:1935年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:中性子の発見
サー・ジェームズ・チャドウィック(Sir James Chadwick, CH, FRS、1891年10月20日 - 1974年7月24日)はイギリスの物理学者。1932年に中性子を発見し、これにより1935年にノーベル物理学賞を受賞した。1941年、MAUD報告の最終案を執筆した。これによりアメリカ政府は原爆の研究に真剣に取り組むようになった。第2次世界大戦中にマンハッタン計画に携わったイギリスチームの長であった。1945年、物理学における功績によりイギリスでナイトに叙された。
1911年にマンチェスター・ビクトリア大学を卒業した。そこではアーネスト・ラザフォード(「核物理学の父」として知られる)の下で学んだ[1]。マンチェスターにおいて1913年に修士号を授与されるまでラザフォードの下で研究を続けた。同年、1851年博覧会王立委員会から1851年研究フェローシップを授与された。ベルリンでハンス・ガイガーのもとでベータ放射線を研究することを選択した。ガイガーにより開発されたばかりのガイガーカウンターを使用して、ベータ放射線が連続スペクトルを生成し、それまで考えられていた離散的な線を生成しないことを実証することができた。ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発したときまだドイツにいたため、その後の4年間をルーレーベン収容所で過ごした。
第一次世界大戦後、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所にいたラザフォードの下につき、1921年6月にケンブリッジのゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジからラザフォードの指導の下でDoctor of Philosophyを取得した。その後10年以上にわたりキャベンディッシュ研究所でラザフォードの研究助手(assistant director)を務めた。ここは当時物理の研究において世界有数の場所であり、ジョン・コッククロフト、Norman Feather、マーク・オリファントなどの学生を惹きつけた。チャドウィックは中性子の発見に続きその質量を測定した。彼は中性子はがんに対抗する主要な武器になると予想した。1935年にキャベンディッシュ研究所を離れリヴァプール大学の物理学教授となり、古くなっていた実験室をオーバーホールしサイクロトロンを設置することにより、リヴァプール大学を核物理学の重要な研究センターとした。
第二次世界大戦中は、原子爆弾を造るためのチューブ・アロイズ計画の一部として研究を行う一方、自身のマンチェスターの研究室とその周囲はドイツ空軍による爆撃に悩まされた。ケベック協定により自身の計画とアメリカのマンハッタン計画が一緒になると、British Missionに参加しワシントンD.C.とロスアラモス研究所で働いた。自身の努力により計画責任者であるレズリー・グローヴスのほぼ完全な信頼を得て皆を驚かせ、1945年1月1日のNew Year Honoursでナイトに叙された。1945年7月、トリニティ実験を見た。この後に国連原子力委員会のイギリスの科学顧問を務めた。ビッグ・サイエンスに向かう傾向に不快感を覚えたため、ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長となった。その後1959年に退職した。 1891年10月20日、チェシャーのボリントン
幼年期
マンチェスター・ビクトリア大学に入学することを選択し、1908年に入学した。数学を勉強するつもりであったが、間違って物理学で入学していた。ほとんどの学生同様自宅に住み毎日4マイル (6.4 km)歩いて通っていた。1年生の終わりに物理学を研究するためのHeginbottom奨学金を授与された。物理学科はアーネスト・ラザフォードが長であり、彼が最終学年の学生に研究プロジェクトを割り当てていた。ラザフォードはチャドウィックに2つの異なる放射線源の放射性エネルギーの量を比較する手法を考案するよう指示した。アイデアは、この量は1グラム (0.035 oz)のラジウムの放射能(キュリーとして知られることになる測定単位)で測定できるというものであった。ラザフォードが提案するアプローチは実行不可能であった(このことはチャドウィックは知っていたがラザフォードに伝えるのを恐れていた)ためチャドウィックは押し進め最終的に必要な手法を考案した。この結果はチャドウィックの最初の論文となり(ラザフォードとの共著)、1912年に発表された[6]。1911年に第1級の栄誉で卒業した[7]。
ガンマ線を測定する手法を考案したチャドウィックは、様々な気体や液体によるガンマ線の吸収の測定に進んだ。この結果を記した論文はチャドウィックの単著で発表された。1912年に理学修士を授与され、Beyer Fellowに任命された。翌年、1851年博覧会奨学金を授与され、ヨーロッパ大陸の大学で研究を行うことができた。1913年、ベルリンのPhysikalisch-Technische Reichsanstaltに行き、ハンス・ガイガーのもとでベータ線の研究をすることを選択した[8]。