ジェームズ・ダイモン
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ジェームズ・ダイモン

生誕ジェームズ・ダイモン
(1956-03-13) 1956年3月13日(63歳)
アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク市
住居マンハッタン区アッパー・ウエスト・サイド
出身校タフツ大学 (B.A.)
ハーバード大学 (M.B.A.)
職業JPモルガン・チェース会長および最高経営責任者
取締役会ニューヨーク連邦準備銀行

ジェームズ・ダイモン(James "Jamie" Dimon、1956年3月13日 - )はアメリカ合衆国の実業家。アメリカ合衆国の四大銀行の一つであるJPモルガン・チェースの会長および最高経営責任者を務めている。また、ニューヨーク連邦準備銀行においては2007年よりクラスA取締役を務めている[1][2]。2006年、2008年、2009年、2011年の4回、タイム誌の発表する世界で最も影響力のある100人に選ばれている。インスティテューショナル・インベスター(英語版)誌の発表する最良のCEOリストにも2008年から2011年まで選出されている[3]。2011年には「今年のCEO」に選ばれた[4][5][6]

2011年度にはアメリカ合衆国内の銀行の最高責任者としては最高の2300万ドルの報酬を受け取った[7]
目次

1 生い立ち

2 経歴

2.1 不良資産救済プログラム


3 オバマ政権との関係

4 私生活

5 脚注

6 外部リンク

生い立ち

ニューヨーク市にてギリシャ系のセオドア・ダイモンとテミス・ダイモンの間に生まれ[8]、ブローニング・スクール(英語版)に通った[9]。兄が一人、双子の兄弟がいる。祖父と父はシアーソン(英語版)の株式仲買人であった[10]

タフツ大学にて心理学経済学を専攻し、ある年の夏休みにはシアーソンで働いた。卒業後ハーバード・ビジネス・スクールに入学するまで、マネジメント・コンサルティング業界で二年間経験を積んだ。ハーバード大学での同期生にはジェフリー・イメルト・スティーブ・バーク(英語版)・セス・クラーマン(英語版)らがいる。ハーバード大学での夏休み期間中にはゴールドマン・サックスで働いた。1982年に経営学修士(ベーカー・スカラー)を取得すると、サンフォード・ワイルの熱心な勧めによりゴールドマン・サックスモルガン・スタンレーリーマン・ブラザーズからの内定を断りアメリカン・エキスプレスへアシスタントとして入社した[11]。ワイルは投資銀行ほどの報酬は示さなかったものの、「楽しい(fun)」経験を得られると説得した[12]。ワイルは、当時アメリカン・エキスプレスの執行役副社長であったダイモンの父、セオドア・ダイモンから息子が書いたエッセイを手渡されたことでダイモンに興味をもつようになった。
経歴

1985年にワイルが社内の権力闘争によってアメリカン・エキスプレスを退社するとダイモンも後を追った。二人はコントロール・データ・コーポレーションから消費者金融であるプライメリカ(英語版)社を買収し、ダイモンは最高財務責任者として会社の好転を図った。前例が無い数々の合併と買収を繰り返し、1998年には世界最大の金融企業であるシティグループの設立に至ったが、同年11月の週末休暇中にダイモンはワイルによって解雇された[13]。解雇の原因は、ダイモンがワイルの娘であるジェシカ・ビブリオウィッチの昇進を拒んだことを巡る1997年の論争によるものと言われている[14]。一方、その他の問題を本質的な原因として挙げる報道も多く存在する[15]シカゴ大学における2005年の炉辺談話および2006年のケロッグ経営大学院によるインタビューでは、ダイモン自身が解雇はワイルによるものであると答えている。

2000年の3月になるとアメリカ合衆国で当時五番目の規模をもったバンク・ワン (Bank One Corporation) 社の最高経営責任者に着任した[16]。JPモルガン・チェースが同行を2004年7月に購入すると、最高執行責任者に着任した。

2005年12月31日にJPモルガン・チェースの最高経営責任者に選任され、翌年12月31日には取締役会の会長にも指名された[17]

2009年には、投資顧問会社のブレンダン・ウッド・インターナショナルにおいて「トップガン・CEO」の一人に選ばれた[18][19]

2011年9月26日にはカナダ銀行総裁のマーク・カーニーと熱い議論を交わした。この中でダイモンは、国際金融規制であるバーゼル III(英語版)の条項はアメリカの銀行を差別しており、反アメリカ的であると述べた[20]

2012年5月10日、JPモルガン・チェースはダイモンが「我々の全体的なクレジット・リスクを回避するよう設計されている」とした取引によって生じた20億ドルの損失を報告するための緊急電話会議を招集した。ダイモン自身の言葉によると、この戦略は「欠陥で、複雑で、十分に見直されず、実行も不完全で、監督も行き届いていなかった」とされる[21]。この事案については、連邦準備制度証券取引委員会連邦捜査局によって捜査が行われている[22]

JPモルガンが20億ドルの損失を計上した際、, ポール・クルーグマンはダイモンを次のように批判している。

ダイモンは金融改革を遅らせ、骨抜きにし、台無しにしようと闘っているウォール街の者の急先鋒だ。政府保証がある資金を保有する銀行が自己勘定売買、つまり顧客の資金を投機に使うことを禁止するボルカー・ルール[要リンク修正]に対する反対の表明にあたっては特に声を大にした。JPモルガンの社長は、実質的に「我々を信用してください。


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