ジェームズ・ジェローム・ヒル
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35歳ころのジェームズ・ヒル。1875年以前の撮影。

ジェームズ・ジェローム・ヒル(James Jerome Hill、1838年9月16日 - 1916年5月29日)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカ合衆国において鉄道経営を担ったカナダ系アメリカ人である。グレート・ノーザン鉄道(GN)の最高経営責任者(CEO)であり、同鉄道を頂点とした米国北西部に展開した鉄道グループの総帥であった。それらの鉄道がカバーした地域および経済に及ぼした影響から、エンパイア・ビルダー(帝国建設者)と呼ばれた。
生涯
幼少期から青年期

ヒルは、当時イギリス植民地であったアッパー・カナダタウンシップ、ウェリントン郡エラモサ(Eramosa)(現オンタリオ州)に生まれた。幼少時のケガにより、右目を失明していた。9年間の義務教育ののち、ロックウッド・アカデミー(Rockwood Academy)に通った[1]が、父親が死亡したために退学しなければならなくなった。それまでに、代数学幾何学測量英語を修めていた。後年、彼が英語や数学に才を発揮したのは、こうしたバックボーンによる。

ヒルの職業遍歴は、ケンタッキー州における事務員からはじまった。そこで働く間に簿記を習得し、アメリカに永住することを決意する。ミネソタ州セントポールに移住したのは、18歳のときであった。セントポールでは蒸気船の会社で簿記の仕事に就いた。1860年までに、卸売り業者に転職し、貨物の積み替え、とりわけ鉄道と蒸気船との積み替えに従事した。そこでの仕事を通じ、貨物と輸送について学び、ヒルは独立する。ミシシッピ川が凍結する冬期間には蒸気船が通れないので、輸送の競売に参加し、運送契約を結ぶことに成功した。フォート・スネリングへの燃料用薪の輸送であった。
若きビジネスマン

ヒルの輸送および燃料供給の経験から、石炭と蒸気船のビジネスにも参入した。1870年に蒸気船での輸送に参入し、2年後にはノーマン・キットソン(Norman Kittson)とともに地域の輸送を独占した。石炭事業に乗り出したのは1867年で、無煙炭を専売し、1874年までに事業規模を5倍に拡大した。同時に金融にも参入し、有名銀行の取締役となった。この時点でも、彼はまだ自分の前途にあるビジネスチャンスをつかもうとしていた。ときに倒産した企業を買い取り、再興し、売却することで、莫大な利益を得ていた。

こうした初期の成功は、彼の類い希な性質によるものであった。その性質は、事業が世界的なものになるときも発揮された。第一に、彼は猛烈に働き、努力した。ヒルによれば、成功の秘訣は「働くこと、それも激しく働くこと、知的に働くこと、もっと働くこと」と言っている。第二に、ヒルは偏執的に競争が好きであった。強大な敵を打ち負かすことは自尊心を満足させるものであった。第三に、ヒルは優秀なリーダーであった。ヒルはどんな新たな事業でも、そのニュアンスをくみ取ることができた。ヒルの事業戦略はすばらしく、何人であろうとも説得された。これらの三つの性質が、ヒルに急激に強大な権力を持たせることにつながった。彼は仕事の見通しを言い当てた。これらのことは、1877年にヒルが鉄道事業に参入したことに見ることができる。
ミネソタ州を中心とした鉄道建設の動き

1857年、ミネアポリス・アンド・セント・クラウド鉄道(M&StC)とミネソタ・アンド・パシフィック鉄道(M&P)が設立された。M&StCについては後述する。路線は、セントポールから西へ向かい、ミシシッピ川を渡り、のちに双子都市といわれるようになるミネアポリス(当時はセントポールと州都争いをしており、両都市は反目していた)を経てダコタ準州との境界であるレッド川沿いのブレッケンリッジまでの幹線と、ミシシッピ川手前で分岐し、ミシシッピ川に沿って北上、クロウ・ウイングまでの支線が計画された。

1862年、建設途中に資金繰りが悪化し、M&Pは倒産したが、それは形式的なもので、負債以外をすべて引き継いだセント・ポール・アンド・パシフィック鉄道(StP&P)が新たに設立され、資金を集めて一部開業にこぎつけた。1864年、経営陣の思惑の違いから支線がファースト・ディビジョンという別会社となった。[2]

それとはまったく別に、1864年ワシントン準州の初代知事であるイザーク・スティーブンス(Isaac Stevens)の政府への働きかけにより、五大湖と太平洋北部とを結ぶノーザン・パシフィック鉄道(NP)の設立特許が下りた。資金集めに難航し、1870年2月に着工。同年7月には、StP&Pの株式の3分の2を取得して、同年末にはファースト・ディビジョンがNPの子会社となる。複雑な金融資本のしがらみから、これら三鉄道は合併はしていない。また、ここまでの流れには、ヒルは関与していない。なお、NPが太平洋岸までの建設を終了したのは1883年である。

前述のように、資金難なのに鉄道建設を進めた結果、1873年恐慌(Panic of 1873)が起こる。多数の鉄道が倒産し、StP&Pも倒産した。NPはかろうじて倒産を免れた。StP&Pは、前述の通り強いしがらみの中にあり、将来的な展望が開けない状況にあったが、この倒産劇は、ヒルにとっては絶好の機会であった。3年間、ヒルはStP&Pを徹底的に調べると、StP&Pは初期投資さえすれば、利益を生み出せる鉄道であるとの結論に達した。ヒルはノーマン・キットソン(Norman Kittson)、ドナルド・スミス(Donald Smith)、ジョージ・スティーブン(George Stephen)、ジョン・スチュワート・ケネディ(John Stewart Kennedy)らと組んだ。彼らは鉄道を購入しただけではなく、線路通行権をNPに安価で提供し、相当な距離の路線の延長も果たした。1879年5月、ヒルら四人はStP&Pを清算、改組し、セント・ポール・ミネアポリス・アンド・マニトバ鉄道(通称マニトバ鉄道、StPM&M)を設立。ヒルの最初の目標は、鉄道の延伸と改良であった。

当時の見立てでは、ヒルは実践的な、細かい点にこだわる経営者であった。ヒルは人々が沿線に住むことを欲し、まず家屋敷を人々に販売したのちに移住させた。彼はロシアから穀物の種子を輸入し、それを農家に販売した。


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