ジェームズ・キャグニー
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ジェームズ・キャグニー
James Cagney
1930年代撮影の広報写真
本名James Francis Cagney Jr
生年月日 (1899-07-17) 1899年7月17日
没年月日 (1986-03-30) 1986年3月30日(86歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク市
死没地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州スタンフォード
職業俳優
ジャンル映画舞台
活動期間1919年 - 1984年
配偶者Frances Vernon(1922年 - )
著名な家族ウィリアム・キャグニー(弟)
ジーン・キャグニー(妹)
主な作品
民衆の敵』(1931年)
汚れた顔の天使』(1938年)
ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(1942年)
白熱』(1949年)
ミスタア・ロバーツ』(1955年)

 受賞
アカデミー賞
主演男優賞
1942年ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演男優賞
1938年汚れた顔の天使
1942年ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ
AFI賞
生涯功労賞
1974年
映画スターベスト100
1999年(男優部門第8位)
全米映画俳優組合賞
生涯功労賞
1977年
その他の賞

備考
映画俳優組合代表(1942年 - 1944年
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ジェームズ・キャグニー(James Cagney, 1899年7月17日 - 1986年3月30日)は、アメリカ合衆国俳優。本名ジェームズ・フランシス・キャグニー・ジュニア(James Francis Cagney Jr)。過去の日本では「ジェームス・キャグニー」という表記も使われた。

1930年代隆盛を誇ったギャング映画スターの一人であり、ヴォードヴィル出身であることから唄やダンスもこなした。小柄だが不敵な面構えときびきびとした早口によって強烈な印象を与え、活力に溢れた行動派キャラクターを多く演じて、大衆から広く親しまれた。
生涯
生い立ちと映画デビューまで

1899年、アイルランド系一家の次男としてニューヨークに生まれる。兄弟のうち2人は生後間もなく死亡し、キャグニー自身も幼少期は大変体が弱かった[1][2]

生活は貧しかったが「喧嘩っ早い父親としっかり者の母を中心に仲のいい幸せな家族であった」と後年キャグニー自身が回想している。コロンビア大学に入学[3]したが、1918年に父がスペイン風邪のために死亡[4]すると、彼は幼い弟妹を抱えた家計を助けるため、大学を中退しウェイター図書館司書のアルバイトに勤しんだ[5]

当時から野球ボクシングに打ち込むスポーツ青年でもあった。特にボクシングでは、賞金が出る試合への出場を依頼されるなど、確かな腕をもっていたようである(ただし、この試合への出場は母の反対にあって断念した)。

その後、より高収入を得ようと芸人に転職。ヴォードヴィルブロードウェイの舞台に出演していった。なお、彼の芸人としての初仕事は、『コーラスライン』の女性ダンサー役であった。1922年に所属していたヴォードヴィル一座の女優フランシス(愛称「ビル」)と結婚し、彼女と共に全米各地を巡業した。この時期には、同じく下積み生活をおくっていたケーリー・グラントとコンビを組んだこともある。

舞台『Sinner's Holiday』の主役に抜擢されたことから、俳優としての活動が本格的に始まった。この舞台がきっかけとなって、1930年に大手映画会社ワーナー・ブラザースに見出されて映画界入りし、同作の映画版で映画デビューをした。
ギャング映画の隆盛とスターへの道

1920年代後半から、禁酒法の影響で蔓延していた密造酒の利権を巡ってアル・カポネに代表されるギャング達の抗争が新聞やラジオで連日報じられていた。そのような社会の動きに目をつけたのがキャグニーが所属したワーナー・ブラザースであった。同社はエドワード・G・ロビンソン主演の映画『犯罪王リコ』(1930年)を皮切りに、キャグニーやポール・ムニジョージ・ラフトといった個性派の俳優達を起用して、数々のギャング映画を製作していった。

この流れからキャグニー主演で製作されたのが1931年の映画『民衆の敵』である。この作品でキャグニーは、酷薄かつ凶暴なギャングのトム・パワーズを見事に演じて大評判となり、一躍トップスターの仲間入りを果たす(劇中において、パワーズが食卓で情婦の顔に半切りのグレープフルーツを押し付けるシーンは、大変有名になった)。以後ギャング映画の主役の一人として冷酷非情なキャラクターを多く演じた。
様々なジャンルへの挑戦

『民衆の敵』によってギャングスターとしての地位を築いたキャグニーであったが、それに飽き足らず、コメディや西部劇など次々と新たなジャンルへ挑戦した。1933年の『フットライト・パレード』(使用楽曲「上海リル」が日本でもヒット)では、ヴォードヴィル時代に培ったダンスを披露し、1935年の『真夏の夜の夢』ではシェイクスピア、といった具合である。

1935年の終わりにはワーナーブラザーズを飛び出して弟と共に独立系映画制作会社「グランド・ナショナル・ピクチャーズ」を設立して『グレイト・ガイ』や『キャグニー ハリウッドに行く』を製作するが、興行的に振るわず失敗した。

1938年、再び古巣のワーナー社に戻ったキャグニーは『汚れた顔の天使』に出演した。この作品では処刑前にわざと臆病に振舞って、少年たちのギャングへの憧れを断ち切ろうとする男を演じ、これまでの冷酷非情なギャング役とは一味違ったキャラクターを評価されて、ニューヨーク批評家協会賞の男優賞を得て、映画の題名も本人の代名詞となった。その後もギャング映画『彼奴は顔役だ!』や西部劇『オクラホマ・キッド』、ロマンティック・コメディ『いちごブロンド』などで安定した人気を保っていく。その頃まだ無名だったハンフリー・ボガートは、キャグニー作品に悪役・敵役として頻出しており、キャグニーにしばしば「殺されて」いた。
アカデミー賞受賞とその後の活躍

1942年にキャグニーは、「ブロードウェイの父」と呼ばれた作曲家兼俳優の興行師ジョージ・M・コーハンの伝記映画『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』に出演する。


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