ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー
生誕1857年5月22日
アメリカ合衆国 セントルイス
死没1925年11月25日
日本 東京 聖路加病院
出身校ハーバード大学
職業建築家、教育者
配偶者フローレンス・ピットマン
子供5人
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ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(James McDonald Gardiner、1857年5月22日 - 1925年11月25日)は、アメリカ人建築家、教育者、宣教師[1][2][注釈 1]。
米国聖公会から日本に派遣され、立教学校、立教大学校(現・立教大学)で校長、教員を務めた。東京築地にあった立教大学校の校舎群や、聖堂などを設計する。立教大学の創生期において、校長、教員のみならず、建築士としても活躍し、米国式カレッジの設立と運営に大きく貢献した。校長退任後は、本格的に建築家を専業とし、日本各地で設計を行う。京都の聖アグネス教会や京都聖ヨハネ教会(博物館明治村に移設)などの教会建築のほか、横浜に移築されている外交官の家など、邸宅の建築も多く手掛けた[4][3]。
生涯
1857年5月22日 - アメリカ合衆国ミズーリ州東部の都市、セントルイスで生まれる[3][5]。
父は同じジェームズ、母はマーガレット(旧姓マッカートニー・ゴードン)、共にスコットランド出身。
1870年代 - 一家はニュージャージー州ハッケンサックに移る。
この頃、ハッケンサック・アカデミーで大学への予備教育を受ける。
1875年(明治8年)- ハーバード大学へ入学。
1877年(明治10年)- 専門課程への進学を断念し、大学を中退。
1879年(明治12年)- ニューヨークのフレーザー&エドワーズ商会に経理係として勤務[3]。
この頃、米国聖公会内外伝道局の執事の選ばれ、海外伝道を志す[3]。
1880年(明治13年)
コネチカット州、セレック・スクールに転職。
6月 - チャニング・ウィリアムズの要請により米国聖公会伝道局から築地の立教学校への派遣が決定される。
8月 - ニューヨークを出発。
9月20日 - サンフランシスコを出航。
10月14日 - 横浜へ到着[6][注釈 2]。同月には立教学校の初代校長に就任する[8]。立教学校では化学と英文学を教える[9]。
1881年 (明治14年)
日光でフローレンス・ピットマンに出会い、婚約する[5]。
築地居留地37番に立教大学校(St. Paul's College)の校舎の建設を着工。
1882年(明治15年)
5月16日 - 東京・芝の聖アンデレ教会でフローレンスと結婚[7][注釈 3][注釈 4]。(博物館明治村に、新婦が着用したウェディングドレスが現存。)
夫婦は築地居留地26番に居住。同邸宅の2部屋を立教女学校(現・立教女学院)の校舎として使用。
立教学校は、ガーディナーの有能な管理のもとで引き続き繁栄する[7]。
6月 - 立教女学校の全責任はガーディナー夫妻の手に委ねられる[7]。
12月 - 築地居留地37番の立教大学校の校舎が竣工。
1883年(明治16年)
1月 - 立教大学校設立。校長に就任する。立教大学校では英文学を教える[9]。
長女ヘルダ・ホートンが生まれるも2か月で早世。
1884年(明治17年)
3月 - 築地居留地26番に立教女学校の新校舎が竣工。
一時体調を崩して帰米。ハッケンサックの実家で静養。長男ローレンスが生まれる。
1885年(明治18年)- 日本へ戻る[6]。
1886年(明治19年)- 次女ハスノハナが生まれる。
1887年(明治20年)
東京専門学校(現早稲田大学)、共立学校(現開成中学校・高等学校)でも英語講師を務める[10]。
この頃から毎夏、日光で過ごす。当時は安養院の離れを借りて宿舎とする。
1889年(明治22年)
3月31日 - 鹿鳴館で開催された大日本帝国憲法発布祝賀夜会に夫妻で招待される[11]。
1890年(明治23年)- 校名が立教学校に戻る。三女アーネスティンが生まれる。
1892年(明治25年)
6月 - 立教学校長を退任[8]。本格的に建築家としての人生を歩み始める。
家族とともに帰米。
1894年(明治27年)
6月20日 - 明治東京地震で立教学校校舎などの初期作品が被害を受ける。以来、建物の耐震性を考慮した設計を行うようになり[6]、これまでの総煉瓦造ではなく、建物の下層部は煉瓦だが、上層部を軽量の木材を用いるなどの設計を行う[4]。