ジェームズ・ウィリアムソン
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James Williamson
ジェームズ・ウィリアムソン
2012年。ブリュッセル・サマーフェスティバル
基本情報
別名James 'Straight' Williamson
生誕 (1949-10-29) 1949年10月29日(74歳)
出身地 アメリカ合衆国テキサス州カストロヴィル(英語版)
ジャンルプロトパンク, パンク・ロック
職業音楽家, 作曲家
担当楽器リードギター, バッキング・ヴォーカル
活動期間1966年?1980年, 2009年?現在
レーベルコロムビア, ボンプ!(英語版), イージーアクション, ファット・ポッサム, レオパード・レディ
共同作業者ザ・ストゥージズ, イギー・ポップ, ペトラ・ヘイデン(英語版), フランク・マイヤー, マイケル・アーバーノ(英語版), グレッグ・フォアマン(英語版), ジェイソン・カルマー
公式サイト ⇒http://straightjameswilliamson.com

ジェームズ・ロバート・ウィリアムソン(James Robert Williamson, 1949年10月29日生まれ)はアメリカ合衆国ギタリスト作曲家音楽プロデューサー電子工学技術者。名前の日本語表記は「ジェイムズ」「ジェームス」「ウイリアムソン」「ウィリアムスン」と複数あるが、本稿は「ジェームズ・ウィリアムソン」で統一する。
概要

プロトパンクの代表的なバンドザ・ストゥージズのメンバーであり、後世に大きな影響を与えたアルバム『ロー・パワー(英語版)』の製作に関わった。また、再結成後のザ・ストゥージズにも2009年から、活動休止を表明した2016年まで参加している。ザ・ストゥージズ活動休止後はソロミュージシャンとしての活動を開始した。1980年からザ・ストゥージズに再参加する2009年までは音楽業界から離れており、AMDソニー・エレクトロニクス電子工学技術者として活動していた。
ザ・ストゥージズ参加まで
生い立ち

1949年にアメリカ合衆国テキサス州カストロヴィルに生まれたジェームズ・ウィリアムソンは、幼い頃に父親と死別し、5歳頃にテキサス州サンアントニオへ引っ越した。[1]その後、母親がアメリカ陸軍の職業軍人と再婚したため、義父の異動に伴ってアメリカの各地を転々とした。[2]

彼がギターを初めて演奏したのは7年生(英語版)の頃で、その頃は家族とともにオクラホマ州ロートンに住んでいた。[1].mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}一夏テキサスで過ごした時にギターを手に入れた。すごくクールだと思ったからね。私の姉がエルヴィスのレコードを家に持ち込んだんだが、それで思ったんだよ。「ギターを手に入れなきゃ」とね。私は母に頼んだ。私の叔父はシアーズに勤めていた。だから結果的にシアーズ製の中古のFホールギターを手に入れることができた。弦とフレットの間が1インチ半は離れているやつだよ。もっとも、最初に手に入れたそのギターではほんのちょっとのコードと曲を練習しただけだった。それから1年くらい経ってデトロイトに引っ越したんだが、引越し先の隣の家族があらゆるジャンルの音楽を演奏するような一家だった。その一家の息子が、ケン・ブラックといったんだが、私のコード演奏を上達させてくれたよ。彼はもう自分のエレキギターを手に入れていたね。デトロイトに引っ越したときのことで覚えているのは、それは夏でマーサ&ザ・ヴァンデラスヒート・ウェイヴがヒットしていたことだな。私はケンの部屋でだらだら過ごしながら、彼の演奏を聴いたり、バレーコードの演奏方法を教わったりした。その夏の終わりに私はとうとうエレキギターを手に入れた。フェンダー・ジャガーですごく満足したね。[2]
ザ・ストゥージズ参加までの音楽活動

ウィリアムソンが級友のスコット・リチャードソン[注 1]とキャリア最初のバンドを結成したのは、デトロイトで9年生(英語版)になった時で、バンド名は「ザ・チョウズン・フュー(選ばれし者たち)」と名付けられた。ビートルズローリング・ストーンズゼムなどの曲をカバーしていたバンドだったが[1]、既にウィリアムソンは作曲を始めていた[4]。このバンドにはウィリアムソンが脱退した後にロン・アシュトンベーシストとして加入している[5][6]

バンド結成からしばらくして、ウィリアムソンは学校から退学処分を受けた。長髪を切れば復学できるという条件付きだったが、ウィリアムソンは拒否し[注 2]、そのまま欠席を決め込むと学校は改めて彼を呼び出して事情を聴き、ウィリアムソンを少年院に送ることに決めた。ウィリアムソンはそこで髪を切られた[4][5]

1966年前半、少年院を出たウィリアムソンはニューヨークから80マイル北方にある小都市の寄宿学校に転校した。必然的にチョウズン・フューからは脱退することになった。母親に頼んで転校先にギターとアンプを送ってもらった[4]ウィリアムソンはコバ・シーズというバンドを結成し[7]、改めてリードギタリストとしての腕を磨き始めた。偶然、バンドメンバーの父親にCBSの重役がいて録音機材が借りられたことから、メンバーの発案でリハーサルセッションが音源化された[4]。この音源は2010年頃に発売された[8]

少年院から寄宿学校へ移る間、一時的に自宅に帰っていたウィリアムソンは友人とともにチョウズン・フューのライブを見に行き、その際にチョウズン・フューにベーシストとして加入していたロン・アシュトンと、加えてロン・アシュトンの親友であり、プライム・ムーヴァーズというブルース・バンドにいたイギー・ポップと面識を得て、その後、連絡を取り合う仲になった[注 3][4]。彼らがザ・ストゥージズを結成した後も、エレクトラからリリースしたデビューアルバム「イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ(英語版)」のミキシング中に寄宿学校の友人と訪問するなど、親交を深めていった[注 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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