ジェームズ・アンダーソン
James Anderson
ジェームズ・アンダーソン
基本情報
フルネームJames Outram Anderson
国籍 オーストラリア
出身地同・シドニー市エンフィールド
生年月日 (1894-09-17) 1894年9月17日
没年月日 (1973-12-23) 1973年12月23日(79歳没)
死没地同・シドニー市ゴスフォード
利き手右
バックハンド片手打ち
殿堂入り2013年
4大大会最高成績・シングルス
全豪優勝(1922・24-25)
全英ベスト4(1922・25)
全米ベスト4(1921)
優勝回数3(豪3)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪優勝(1924)
全英優勝(1922)
優勝回数2(豪1・英1)
国別対抗戦最高成績
デビス杯優勝(1919)
■テンプレート ■プロジェクト テニス
ジェームズ・アンダーソン(James Anderson, 1894年9月17日 - 1973年12月23日)は、オーストラリア・シドニー市エンフィールド出身の男子テニス選手。1920年代のオーストラリア・テニス界をリードした選手の1人で、全豪選手権男子シングルスで1922年・1924年・1925年の3度優勝した。彼はウィンブルドン選手権でも1922年に男子ダブルス優勝を達成し、オーストラリア人選手として史上3人目のウィンブルドン優勝者になっている。フルネームは James Outram Anderson (ジェームズ・アウトラム・アンダーソン)といい、普段は名前のイニシャルだけで「J・O・アンダーソン」と呼ばれた。
アンダーソンは「グレイハウンド」(Greyhound: 猟犬の一種、非常に足が速いことで知られる)というニックネームで呼ばれ、肩の高さから打つ強力なフォアハンド・ドライブ(ボールに順回転をかけたフォアハンド・ストローク)を最も得意にした。彼のバックハンド・ストロークは、フォアハンドと同じラケット面で打つ「逆さのバックハンド」(upside-down backhand)を駆使した。背が高く、やせた体格の持ち主であり、試合の時にはテニスコートに大きなカンガルーのぬいぐるみを持ってきたという。アンダーソンは選手経歴を通じて、オーストラリア国内外のイベントでジェラルド・パターソンと対戦する機会が多く、互いに強いライバル意識を持っていた。 アンダーソンは家族の8番目の子供として生まれ、学生時代の1914年にニューサウスウェールズ州のテニス・チャンピオンになった。第1次世界大戦の戦時中、彼は1915年から全米選手権に出場を始めた。戦時中でも、全米選手権だけは途切れることなく開かれていた。1918年11月の世界大戦終結により、他のテニス競技大会の開催が再開され、男子テニス国別対抗戦・デビスカップやテニス4大大会の全豪選手権やウィンブルドン選手権も再開される。1919年度の全豪選手権とデビスカップ決勝は、同じ開催地と時期に行われ、1920年1月後半にシドニーで開かれた。アンダーソンはデビスカップ決勝の第1試合と、全豪選手権のシングルス準決勝でアルガーノン・キングスコート(イギリス)に連敗するが、オーストラリアはデビスカップ決勝でイギリスに「4勝1敗」の勝利を収めた。 1922年の全豪選手権男子シングルス決勝で、ジェームズ・アンダーソンはジェラルド・パターソンに 6-0, 3-6, 3-6, 6-3, 6-2 のスコアで勝ち、初優勝を決めた。同年のウィンブルドン選手権男子ダブルスで、アンダーソンはランドルフ・ライセット
来歴
その後、アンダーソンは全豪選手権で1924年に男子シングルス・男子ダブルスの2冠を獲得し、1925年に男子シングルスで2年連続3度目の優勝を果たした。1925年は、ウィンブルドン選手権で3年ぶり2度目のベスト4進出もある。この頃からフランスの「四銃士」が台頭し始め、アンダーソンはフランス四銃士の1人であるルネ・ラコステに 4-6, 5-7, 1-6 で完敗した。1925年9月4日-7日にアメリカ・ニューヨーク市内のフォレストヒルズにある「ウエストサイド・テニスクラブ」で開かれたデビスカップ「インターゾーン」決勝で、オーストラリアはフランスに「1勝3敗」で敗退し、デビスカップにおいてもオーストラリアとフランスの力関係が逆転した。アンダーソンもシングルス第2試合でジャン・ボロトラに敗れ、これが彼の最後のデビスカップ戦出場になる。1926年全豪選手権の準決勝でジョン・ホークスに敗れ、大会3連覇を逃した試合を最後に、アンダーソンは「プロテニス選手」に転向した。