ジェームズタウン(Jamestown)は、イギリスが北アメリカに建設した最初の永続的植民地で、後のイギリス帝国の広大な植民地の端緒でもある。集落は現存せず、現在は歴史的遺構となっている。
位置上に位置する。
今日のジェームズタウンは、ウィリアムズバーグとヨークタウンとで作る歴史三角形として知られる重要な国家資産の一部(歴史的ジェームズタウン)であり、これら三史跡を結ぶ植民地道路の西終端でもある。 1607年、ロンドン・ヴァージニア会社によってスーザン・コンスタント、ゴッドスピード、ディスカバリーの3隻の船で105名の植民団が北米植民地開拓に送り込まれた。船長クリストファー・ニューポートの下、4か月の航海の末に、プエルトリコを経由して、1607年4月26日にヘンリー岬
歴史「バージニア植民地#歴史」も参照
建設
ポウハタン族インディアンが彼らを手厚く歓待し、食料を分け与えてくれた。英国最初の北米植民団は1585年に送り込まれたが、全滅しており(ロアノーク植民地参照)、ジェームズタウンが最初の永続的植民地となる。
植民当初は延命に不可欠な農耕につくのを嫌がり、インディアンの支援を受けるも食糧は底を突き、病気が蔓延した[1]。1608年1月にクリストファー・ニューポート率いるイングランドからの第一次支援団が到着した時、最初の入植者はわずかに38名だけしか生き残っていなかった[1]。この時、新たに120人が送り込まれた。ニューポートは、砦の補強などを行った後、イングランドに戻るとすぐさま次の補給団を率いることを任命された。開拓の指導者であったジョン・スミスはジェームズタウンの第一の関心を黄金から作物と家畜に変えることと主張し、一時的に事態は改善した[1]。しかし、同年12月に第二次支援団がジェームズタウンに再び到着した時には、食料が尽きたため半数以上の植民者が死亡していた。この時、第二次支援団によって初めてイギリス人以外の労働者もジェームズタウンに送られた。彼らはドイツ、ポーランド、スロバキア人の職人たちで、ジェームズタウンの工芸輸出品を育てるために雇われた。職工たちによってガラス細工のかまどが建設され、ジェームズタウン・ガラスハウス(英語版)はアメリカで最初の工場となった。また、ガラス製品はジェームズタウンの最初のヨーロッパへ輸出品となった。
これらの努力にもかかわらず入植最初の2年でイングランドの投資家たちに利益を持ち帰られないスミスは1609年に解任され、新たにジョージ・パーシー(英語版)がジェームズタウン開拓を率いることになった。1609年8月にイングランドからの第3次支援団の7隻が、10月には途中ハリケーンで逸れた1隻が到着した。1609年から1610年にかけての冬は、ネズミ、ヘビ、馬の生皮、果ては人肉まで食べて飢えをしのぐありさまで、総勢500人の入植者のうち生存者はわずか60名となった[1](「飢えの時(英語版)」)。生き残った者も飢餓で全滅寸前であった1610年の春、イングランドからの第3次支援団の最後の1隻(途中バミューダに漂着し、そこで冬を越した)が到着したが、食料はわずかしか積んでいなかった。第3次支援団として送られた9隻のうち1隻は行方不明となっている。6月7日、植民団はジェームズタウンを放棄しイングランドに帰還することが決定された。しかしその2日後、第4次支援団が食料や医師などの人員を積んで、すんでのところで到着し、ジェームズタウンを放棄しないよう指示した。この判断は植民者たちから不評であったが、これが功を奏してジェームスタウンはイギリス初の恒久的植民地として生き延びることとなった。