ジェームス三木
誕生山下 清泉
(1935-06-10) 1935年6月10日(88歳)
満洲国 奉天省奉天市
職業作家・脚本家・演出家・元歌手
言語日本語
国籍 日本
最終学歴市岡高校 中退
(大学入学資格検定合格)
ジャンルドラマ脚本
小説
エッセイ
デビュー作『装飾音符』(ジャック天野名義)
配偶者山下典子(元妻)
子供山下規介(長男)
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ジェームス三木(ジェームス みき、本名:山下 清泉(やました きよもと)、1935年〈昭和10年〉6月10日 - )は、日本の脚本家、作家、演出家、元歌手。身長170cm。血液型はB型。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴・人物.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
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満洲国奉天省奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)から小学生の時に大阪府茨木市に引き揚げる。中学2年の時、父が心臓病で急死。父の死後、医師である叔父の勧めで医学部を受験する予定だったが、大阪府立市岡高校に入学後は演劇や恋愛に熱中。高校2年の時、演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞。これを期に俳優志望となり、俳優座養成所の入所試験を受けたところ、12倍の競争率を突破して合格。1953年、3年生の5月に高校を中退して上京し、第5期生として俳優座養成所に入所。
しかし学費や生活費を稼ぐためのアルバイトに追われ、大阪弁が抜けなかったことによるコンプレックスも災いし第6期に落ち、市原悦子らと同期になる。さらに仲代達矢の後塵を拝していたこともあって養成所を2年で中退。その後テイチクレコードの新人歌手コンクールに応募したところ、200倍の競争率を突破して合格。月給6,800円でテイチクの専属歌手となり、ディック・ミネや三波春夫の前座を務め、また石原裕次郎『錆びたナイフ』のテスト録音を行っている。
テイチクからはフランク永井(ビクター)の対抗馬として売り出すために、ジェームス三木と名乗ったが人気が出ず、地方巡業など歌手として13年間の下積み生活を送る。その間、大学入学資格検定に合格する。
1960年3月1日、山下典子と結婚。生活のため横浜のナイトクラブ「ナイトアンドデイ」の専属歌手となる(この時の後輩に無名時代の青江三奈がいた)。30歳を過ぎて人気が落ち始めた頃、新聞広告を見て文芸同人誌に小説『装飾音符』を発表。この作品が『新潮』に転載される(ジャック天野名義)。これを機に文芸志望へ転じ、シナリオ作家協会主催のシナリオ研究所(現在のシナリオ・センター)に研究生として入所。半年後の1968年、処女作『アダムの星』で第18回新人映画シナリオコンクールに準入選を果たす。この作品が映画監督・野村芳太郎の目にとまり、ナイトクラブ歌手と二足の草鞋を履きながら野村に師事。1969年、34歳のときに映画『夕月』で脚本家としてデビュー[1]。
1983年には脳腫瘍で入院したが生還し、仕事復帰。
1985年、連続テレビ小説『澪つくし』が視聴率55%を記録し、純愛ブームが巻き起こる。1986年、本作で日本文芸大賞脚本賞受賞。
1987年、大河ドラマ『独眼竜政宗』を大ヒットさせ、大河史上1位の視聴率を獲得。執筆前に大量の史料を読み込んだという[2]。
1997年、『存在の深き眠り』『憲法はまだか』で放送文化基金賞脚本賞受賞。
1997年、山下直子と再婚
舞台演出、小説、随筆なども手がけている。
エピソード
ペンネームの由来は「税務署行き」をもじったもので、歌手時代にディック・ミネに芸名をつけてもらおうとしたところ「これから税務署に行かなくちゃならない」と言われたことから来ているとされていたが、これは事務所がつくったネタだとも言われている。小津安二郎の脚本家としての別名「ゼームス槇」にあやかったとの説もある。
歌手として13年ほど活動するが、一向に芽が出ず、脚本家へ転身した後もこの名前を使い続けている。脚本家としてのデビューは『七人の刑事』だったが、名前を覚えてもらえず「ジュース三本」と誤植されたこともあった。
脳腫瘍の経験談や日本国憲法について説く講演活動を、頻繁に行っている[3]。
「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めている[4]。
『クイズダービー』(TBS)に複数回、ゲスト解答者として出演。しかし第700回[注釈 1]、第750回[注釈 2]では2回連続0勝8敗で、第845回[注釈 3]の2問目まで不正解で、実質18連敗以上している。
長男は俳優の山下規介。実弟の山下六合雄(やました くにお、1945年5月29日-2010年5月1日)にも、脚本や作曲を手がけた作品がある。
愛煙家としても知られ、昨今の公共の場所の禁煙に対し、「せめて70歳以上は、いつどこで喫煙してもよいと、大目にみてくれるとありがたい」と朝日新聞の投書欄[5]に投稿している。
プロ野球は、30年以上に亘り東京ヤクルトスワローズのファン[6]である。
主な作品
脚本
映画
『夕月』(1969年)
『コント55号 宇宙大冒険』(1969年)
『なにがなんでも為五郎』(1970年)
『青春大全集』(1970年)
『ある兵士の賭け』(1970年)
『喜劇 三億円事件』(1971年)
『夕映えに明日は消えた』(1973年) ※公開中止