ジェームズ・プラディエ
James Pradier
1855年の出版物"llustrirte Welt"の肖像画
誕生日1790年5月23日
出生地スイス、ジュネーヴ
死没年1852年6月4日
死没地 フランス共和国、リュエイユ=マルメゾン
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ジェームズ・プラディエと名乗ったジャン=ジャック・プラディエ(James Pradier、本名:Jean-Jacques Pradier、1790年5月23日 - 1852年6月4日)はスイス生まれのフランスの彫刻家である。 ジュネーヴで、プロテスタントのフランスからの難民の息子に生まれた。兄にフランスで版画家として活躍するようになるシャルル=シモン・プラディエ(Charles-Simon Pradier: 1786-1847)がいた。プラディエの育った時代のスイスはフランス革命の後、1798年にフランス共和国軍の侵略を受け、1803年までヘルヴェティア共和国が作られていた。10歳を少し越えたころから、時計職人の徒弟として働いていたが、美術の才能のある若者に奨学金を与えて、学ばせる制度の奨学生に1804年に兄とともに選ばれ、1807年に兄のいるパリに移り、彫刻家、フランソワ=フレデリック・ルモ(Francois-Frederic Lemot)の工房で修行した。1811年にエコール・デ・ボザールに入学した。この頃の流行にしたがって英語の名前、ジェームスを名乗るようになった[1]。 1813年にローマ賞を受賞し、1814年からローマの在ローマ・フランス・アカデミーで学んだ。ローマに滞在していたジャン=ピエール・コルトー(Jean-Pierre Cortot)、ジュール=ロベール・オーギュスト(Jules-Robert Auguste)、ダヴィッド・ダンジェ(David d'Angers)といったフランスの彫刻家と知り合い、ローマのアカデミア・ディ・サン・ルカで絵も学び、イタリアの彫刻家、アントニオ・カノーヴァやイタリアで活動していたベルテル・トルバルセンの工房も訪れた。ローマで5年間、修行して1819年にパリに戻った[1].。 パリで高い評価をえるようになり、1819年のサロンで金メダルを取得し、1819年に国からの注文を受けるようになった。1827年に芸術アカデミーの会員に選ばれ、1828年にフランソワ=フレデリック・ルモの後任としてエコール・デ・ボザールの教授に任命され、レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲した[2]。 ローマで作品のモデルをした女性とパリに戻ったが、1825年から女優のジュリエット・ドルエと愛人関係になり、女児をもうけた。アルフレッド・ド・ミュッセやヴィクトル・ユーゴー、テオフィル・ゴーティエといった文学者たちと友人になり、ジュリエット・ドルエは1833年からヴィクトル・ユーゴーの愛人になったことで知られる。 1833年に有名な化学者、ジャン=ピエール=ジョゼフ・ダルセ(Jean-Pierre-Joseph d'Arcet)の娘と結婚した[2]。この女性は金使いが荒く、浮気者で、ギュスターヴ・フローベールの小説、『ボヴァリー夫人』の主人公の人物設定にヒントを与えた女性ともいわれている[3]。この結婚で3人の子供が生まれたが1845年に離婚した[4]。1852年に旅行中に急死した。 新古典派の彫刻家であるが「サテュロスとバッカント」のような官能的な作品も制作した。
略歴
作品
Chloris caressee par Zephir
プシューケー、ルーブル美術館蔵
Niobid