ジェームス・バリー
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「ジェームズ・バリー」はこの項目へ転送されています。アイルランド出身の画家については「ジェームズ・バリー (画家)」をご覧ください。

Sir
ジェームズ・マシュー・バリー
J. M. Barrie
Bt OM
1892年、ハーバート・ローズ・バロードによるバリー
誕生ジェームズ・マシュー・バリー
James Matthew Barrie
(1860-05-09) 1860年5月9日
スコットランド アンガス キリミュア
死没1937年6月19日(1937-06-19)(77歳)
イングランド ロンドン
墓地スコットランド アンガス キリミュア墓地
職業小説家、脚本家
国籍スコットランド
市民権イギリス
教育グラスゴー・アカデミー
フォーファー・アカデミー
ダンフリーズ・アカデミー
最終学歴エディンバラ大学
活動期間Victorian, Edwardian
ジャンル児童文学、ドラマ、ファンタジー
文学活動菜園派
代表作小さな白い鳥
ピーター・パン
あっぱれクライトン
配偶者メアリー・アンセル (m. 1894⁠–⁠1909)
子供ルウェリン・デイヴィス家の息子たちの後見人
署名
公式サイト ⇒jmbarrie.co.uk
ウィキポータル 文学
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1903年、ウィリアム・ニコルソンによるバリー

初代准男爵サー・ジェームズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie, 1st Baronet, OM1860年5月9日 - 1937年6月19日)は、イギリス劇作家童話作家、ファンタジー作家。「バリ」と表記されることもある。『ピーター・パン』の作者として知られる。
人物

スコットランド・キリミュアで生まれ進学し、ロンドンに転居しヒット作となる多くの小説や戯曲を執筆した。そこでルウェイン・デイヴィス家の息子たちと出会い、『小さな白い鳥』を含む、ケンジントン・ガーデンズで魔法の冒険を繰り広げる幼い少年について執筆するきっかけとなり、その後、年を取らない少年と普通の女の子であるウェンディがネバーランドを冒険するおとぎ話『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』を執筆した。

ヒット作を出し続けていたが、ピーター・パンの影響は強く、女の子の名付けに「ウェンディ」が人気となった[1]。デイヴィス夫妻の死後、非公式ではあるがデイヴィス家の息子たちを養子とした。1913年6月14日、ジョージ5世から准男爵の爵位を受け、1922年、新年叙勲にてメリット勲章を授与された。死の直前、ロンドンにあるグレート・オーモンド・ストリート子供病院にピーター・パンに関わる権利を贈与した。
年譜

1860年 - 織工の父、石工の娘の母のもとで誕生。姉と兄がいた。エディンバラ大学を卒業。ノッティンガムの新聞社に勤めながら雑誌への寄稿などを行っていた。

1885年 - ロンドンに行き文筆業に専念。

1888年 -『オールド・リヒト物語』を発表、有名になる。

1894年 - 女優のメアリ・アンセルと結婚する。

1900年 -『トミーとグリゼル』出版、ケンジントン公園の知り合い・ルウェリン・デイヴィス家の息子たち(5人兄弟)をサレーの別荘に招待。

1902年 -『小さな白い鳥』(第13章から第18章にピーターパンが出演。なおモデルはデイヴィス夫人・シルビアとその長男・ジョージとされる)を出版。1900年頃から劇作をするようになった。戯曲『あっぱれクライトン』が上演される。

1904年 - 戯曲『ピーター・パン 大人になりたがらない少年』(3幕)を執筆。この作品は大成功した。

1906年 -『ケンジントン公園のピーター・パン』(『小さな白い鳥』から抜粋)を出版。

1909年 - 離婚。デイヴィス夫妻死亡により子供2人を養子にする。

1911年 - さまざまな版の最終版として小説『ピーター・パンとウェンディ』を 執筆、刊行した。

1912年 - ケンジントン公園に養子マイケルをモデルにしたピーターパンの像を建てる。

1913年 - ジョージ5世から爵位(准男爵)。

1919年 - セント・アンドルーズ大学の学長に就任。

1921年 - 養子・マイケルが溺死(20歳)。

1922年 - メリット勲章を授与される。

1928年 - 戯曲『ピーター・パン』5幕版を出版。

1930年 - エディンバラ大学の学長に就任(1937年に辞任)。

1937年 - 死去

生い立ち

コットランドのアンガスのキリミュアにて保守的なカルヴァン主義の家庭に生まれた。父親のデイヴィッド・バリーは織工としてまずまずの成功を収めていた。母親のマーガレット・オグルヴィは8歳で母を亡くし家事をこなしていたとされる。バリーは10人きょうだいの9番目で、バリー誕生前に亡くなっていた2名を除き全員が通学し、少なくとも仕事に使えるだけの読み書き算数ができた。バリーは平均より小さい子供で、物語を作ることが好きだった[2]。1934年のパスポートによると成長時の身長は161cmであった[3]

6歳の頃、母親のお気に入りであった兄デイヴィッドが14歳の誕生日の前日にアイススケートによる事故で亡くなった[4]。母親はひどく落ち込み、バリーはデイヴィッドの服を着たり、デイヴィッドの口笛を真似たりし、デイヴィッドの代わりに母に気に入られようとしていた。ある日、バリーが母の部屋に入ると、母は「あなたなの?」と言った。バリーは母の回顧録『Margaret Ogilvy 』(1896年)で「私は母が亡くなった少年に話し掛けたのだと感じた」とし、小さな寂しい声で「違うよ、彼じゃない。僕だよ」と応えたと記した。母は亡くなった少年は永遠に少年のままで、成長せずいつまでも自分のそばにいると考えることで自分を癒した[5]。バリーと母は幼い頃の思い出話を語ったり、『ロビンソン・クルーソー』、スコットランド人作家ウォルター・スコットの作品、『天路歴程』などを読むことを楽しんだ[6]

8歳の頃、バリーは兄アレクサンダー、姉メリーアンが教師を務めるグラスゴー・アカデミーに手伝いのため家を出た。10歳で家に戻り、フォーファー・アカデミーに通学した。14歳の頃、ダンフリーズ・アカデミーに進学のため家を出て、再びアレクサンダーとメリーアンと共に暮らした。バリーは読書に熱中し、三文小説、RMバランタインやジェイムズ・フェニモア・クーパーの作品を好んだ。ダンフリーズにて、友人たちとモート・ブレイ邸の庭園でオデッセイ的な海賊ごっこなどをして遊び、のちに戯曲『ピーター・パン』を執筆する原点となった[7][8]。彼らは演劇クラブを創立し、旗揚げ公演『山賊バンデレロ』を上演し、その内容がモラルに反するとして学校理事会から批判された[6]
文学界での経歴ロンドンのケンジントン・ガーデンズにあるジョージ・フランプトンによるピーター・パン像

バリーは作家になりたいと願っていたが、家族は牧師などの職業に就くよう説得を試みていた。アレクサンダーのアドバイスにより大学に行くことで譲歩したが、文学を専攻することにした[9]エディンバラ大学に進学し、学内紙に劇評を寄稿した。


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