ジェローム・ロビンズ
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Jerome Robbins
ジェローム・ロビンズ
ジェローム・ロビンズ(1968年)
生誕Jerome Wilson Rabinowitz
ジェローム・ウィルソン・ロビノウィッツ
(1918-10-11) 1918年10月11日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
死没1998年7月29日(1998-07-29)(79歳)
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
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ダンサー

振付師

映画監督

演出家

劇場プロデューサー

活動期間1937年?1998年
受賞一覧
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ジェローム・ロビンズ(「ロビンス」と表記されることが多い/Jerome Robbins, 本名: ジェローム・ウィルソン・ロビノウィッツ / Jerome Wilson Rabinowitz, 1918年10月11日 - 1998年7月29日)はアメリカ合衆国のクラシック・バレエ、舞台、映画、テレビにおけるダンサー、振付家、映画監督、演出家、プロデューサー。

オン・ザ・タウン』、『ピーター・パン』、『High Button Shoes』、『王様と私』、『パジャマゲーム』、『Bells Are Ringing』、『ウェスト・サイド物語』、『ジプシー』、『屋根の上のヴァイオリン弾き』など多くの舞台作品に携わっていた。トニー賞を5回、そしてケネディ・センター名誉賞を受賞した。アカデミー賞において、1961年にロバート・ワイズと共に『ウエスト・サイド物語』でアカデミー監督賞を受賞し、映画での振付の功績を讃えられアカデミー名誉賞を受賞した。

2009年、日記からの引用、パフォーマンス記録、リハーサル映像、本人および同僚たちのインタビューを使用し、半生および業績を追ったドキュメンタリー『Something to Dance About』がPBSで放送され、エミー賞およびピーボディ賞を受賞した[1][2]
略歴

1918年10月11日にニューヨークマンハッタンで生まれる。フレッド・アステアに憧れてダンサーを志し、アントニー・チューダーにダンスを、エリア・カザンに演劇を学ぶ。日本人ダンサー新村英一(Nimura Yeichi)にも師事。1940年アメリカン・バレエ・シアターでソリストとして踊る。

1944年バレエ『ファンシー・フリー』(Fancy Free音楽レナード・バーンスタイン)で振付家としてデビューするや一躍脚光を浴びる。『ファンシー・フリー』は『オン・ザ・タウン』(On the Town 1944年)としてミュージカル化、『踊る大紐育』(1949年)として映画化された。

1949年にニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB)の副バレエ・マスターに就任。

『檻』(1951年)、『牧神の午後』(1953年)など多くの作品を振り付ける。同時にブロードウェイでも仕事をはじめ、『王様と私』(1951年)、『ウエスト・サイド・ストーリー』(1957年)、『屋根の上のバイオリン弾き』(1964年)など多くのヒット作品を手がけトニー賞を受賞している。

1961年に『ウエスト・サイド・ストーリー』が映画化された際にはロバート・ワイズと共に監督を務め、アカデミー賞監督賞他9部門を受賞した。

1964年、遅々として進まない『ファニー・ガール』を引き受け、1,348回上演に導いた。本作によりバーブラ・ストライサンドはスターとなっていった。

1950年代、米国中に吹き荒れた「赤狩り」の嵐の標的となった末、かつての同志8人を名指し(naming names)した「密告者」であった[3]が、下院非米活動委員会に協力したことでロビンズの名前は傷ついていない。

ジョージ・バランシンの死後ピーター・マーティンズと共にNYCBのバレエ・マスターに就任(1983?1990年)。

1998年にニューヨークで死亡した。
生い立ち

マンハッタンの移民が多く住むロウアー・イースト・サイドの東ブロードウェイ通り270番地にあるユダヤ産科病院にて誕生し、ジェローム・ウイルソン・ラビノウィッツと名付けられた[4]。父ハリー・ラビノウィッツ(1887年-1977年)と母リーナ・ロビンズの元に生まれ[5]、姉ソニア(1912年-2004年)がいた[6][7][8]

ラビノウィッツ家はマディソン・アベニュー北東の東97番街51番地の大規模なアパートに住んでいた。ミドルネームの「ウィルソン」は両親の強い愛国心により当時の大統領ウッドロウ・ウィルソンに因み名付けられ、近親者からは「ジェローム」を略した「ジェリー」と呼ばれていた。

1920年代初頭、一家はニュージャージー州ウィーホーケンに転居した。父と叔父はユニオンシティ近くにコンフォート・コルセット社を開業した。1935年にウッドロウ・ウィルソン高等学校(現ウィーホーケン高等学校)を卒業した[4]。一家はヴォードヴィル・パフォーマーや劇場オーナーなどショービジネスと多くのコネクションを持っていた。1940年代、一家は法的に姓を「ロビンズ」に変更した。

高校でアリーズ・ベントレーの元でモダンダンスを学び始めた。ベントレーは生徒たちに音楽に合わせて即興でステップを創ることを推奨した。のちにロビンズは、遠慮も疑問も持たずに自由に自身のダンスを作り上げることを学んだと語った。高校卒業後、化学を学ぶためにニューヨーク大学に進学したが、1年後に経済的理由により退学し、フルタイムでダンスに専念するようになった。表現主義的モダンダンスの権威であるセニヤ・グラック・センダーのカンパニーに所属した。姓をロビンズに変更するよう勧めたのもセンダーであった。センダーにバレエの習得を勧められエラ・ダガノヴァに師事した他、スパニッシュ・ダンスをヘレン・ヴェオラに、エイジアン・ダンスを新村英一に、振付をベシー・ションバーグに師事した。センダーのカンパニーに所属中、イディッシュ・アート・シアターで上演された『The Brothers Ashkenazi』の端役で初舞台を踏んだ。
経歴
1930年代および1940年代1941年、オットリーノ・レスピーギの音楽によるバレエ『Three Virgins and a Devil』での"Youth"役

1937年、ペンシルバニア州のポカノにあるリゾートで、週替わりのブロードウェイ・スタイルのレビューで知られるキャンプ・タミメントにて、ロビンズにとってダンサーとして数多い出演経験の中でも最初期の出演となった。またジョージ・バランシン振付の『Great Lady』や『Keep Off the Grass』などのブロードウェイ公演でコーラスの一員としてダンスの出演をするようになった。またタミメントのレビューで振付をするようになり、イモジン・コカやキャロル・チャニングなどのタレントが出演するコメディ・シーンの他、ドラマティック、トロピカル、そして議論を呼ぶようなシーンの振付も行なった。ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』に合わせたダンスはのちにニューヨーク市の92nd Street Yでも上演された。

1940年、のちにアメリカン・バレエ・シアターとして知られるバレエ・シアターに加入した。1941年から1944年、『Helen of Troy』のヘルメース役、『ペトルーシュカ』のタイトル・ロールアグネス・デ=ミルの『Three Virgins and a Devil』の"Youth"役、『ロメオとジュリエット』のベンヴォーリオ役などのソロイストとして知られるようになった。また振付師ミハイル・フォーキンアントニー・チューダージョージ・バランシンの影響も受けた。1934年、ポール・カドムスによる『The Fleet's In!』。1944年の『Fancy Free』の着想を与えた。

1944年、休暇中の水兵たちが登場するスクリューボール・コメディでクラシック・バレエと1940年代の社交ダンスを融合させた『Fancy Free』を制作した。1944年度、同作にバレエ・シアターとしてメトロポリタン・オペラに出演した。ロビンズは1934年のポール・カドムスによる絵画『The Fleet's In!』に着想を与えられ、より軽妙な作品に仕上げたと語った。『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙のインタビューにおいて「『The Fleet's In!』を見た後、『Fancy Free』に着想を与えたと認めたくなく、街中で水兵や女性たちを観察していた」と語った。当時ほぼ無名であったレナード・バーンスタインに作曲を依頼した[9]。またオリヴァー・スミス(英語版)に装置デザインを依頼した。

1944年後期、『Fancy Free』を一部基にしたミュージカル『オン・ザ・タウン』の制作および振付を行ない、ブロードウェイでのキャリアを開始した。バーンスタインが作曲、スミスが装置デザインを行なった。脚本および作詞はその後も共に制作することとなるベティ・コムデンアドルフ・グリーンが担当し、ブロードウェイのレジェンドであるジョージ・アボット(英語版)が演出を行なった。ロビンズは振付師として、ニューヨーク市内の人種的多様性をコーラスに反映させるため、ブロードウェイで初めて『オン・ザ・タウン』で人種隔離政策を破った。1945年、ジャズ・エイジのミュージカル『Billion Dollar Baby』を制作した。リハーサル中、ダンサーたちの演出に夢中になっていたロビンズは舞台からオーケストラピットに落下した[10]。2年後の1947年、マック・セネットスラップスティック・コメディ風のユーモラスなバレエ『High Button Shoes』で称賛され、ロビンズにとって初のトニー賞となる振付賞を受賞した。同年、ニューヨーク市に新たに組織されたアクターズ・スタジオの1期生となり、週3回、マーロン・ブランドモーリン・ステイプルトンモンゴメリー・クリフト、ハーバート・ベンゴフ(英語版)、シドニー・ルメット、他約20名のクラスメートと共に創立者のロバート・ルイス(英語版)の授業を受けていた[11]。1948年、『Look Ma, I'm Dancin'!』で共同演出および振付を行ない、1949年、アーヴィング・バーリン作詞作曲のミュージカル『Miss Liberty』で振付を行なった。

ブロードウェイでのキャリアを構築しつつ、モートン・グールド作曲の『Interplay』、ボストンで上演禁止となったレナード・バーンスタイン作曲の『Facsimile』など独創的で多様な様式の数多くのバレエ作品の制作を行なった。1949年、バレエ・シアターを脱退し、ジョージ・バランシンリンカーン・カースティンが新たに創立したニューヨーク・シティ・バレエ団に副芸術監督として入団した。その直後、不寛容についてのバレエ『The Guests』の振付を行なった。
1950年代1951年ミュージカル「王様と私」劇中劇『アンクル・トーマスの小屋』

ニューヨーク・シティ・バレエ団においてロビンズはすぐにダンサーとしても振付師としても活躍した。1929年にロビンズのために再演されたバランシンの『"The Prodigal Son"』、『ティル・オイレンシュピーゲル』、タナキル・ルクレアと共演した『"Bourree fantasque"』、そしてロビンズが制作しルクレアが主演した『"Age of Anxiety"』、『"The Cage"』、『"Afternoon of a Faun"』、『"The Concert"』などで知られるようになった。


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