ジェロルスタン女大公殿下
[Wikipedia|▼Menu]
ジュール・シェレによる初演時のポスター .mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

『ジェロルスタン女大公殿下』(ジェロルスタンじょたいこうでんか、フランス語: La Grande Duchesse de Gerolstein)は、ジャック・オッフェンバックが作曲した全3幕のオペラ・ブフ(またはオペレッタ)で、1867年4月12日パリのヴァリエテ座(フランス語版)で初演された[1]。『ジェロルステイン大公妃殿下』と英語風に表記されることもあるが、主人公は大公の妻ではなく、女性の大公である。なお、日本では大正時代浅草オペラで『ブン大将』として親しまれた歴史がある。『地獄のオルフェ』と『美しきエレーヌ』ほどの人気はないが、オッフェンバックのオペレッタの代表作のひとつと考えられる。
概要ジェロルスタン女大公を演じるオルタンス・シュネデール

本作はフランス国内の金モールに飾られた軍服に憧れる風潮を風刺し、フランスの軍政や隣国プロイセン王国普墺戦争における軍国主義を徹底的に皮肉っており[2]、オッフェンバックの全作品の中でも最も顕著に風刺的要素が現れた作品となっている[3]。『ラルース世界音楽事典』によれば「堕落した軍人の魂、昇進欲、うわべだけの名誉心のパロディである本作はすぐに大当たりをとった。それほど早く来るとは思わなかった戦争をあざ笑っていた。パリの全市民も第12回の上演に訪れたナポレオン3世もこの作品を楽しんだ。パリ万国博覧会に招待された全ての君主たちがオッフェンバックの素晴らしい音楽の歌い手であるオルタンス・シュネデールを称賛しに行くことを望んでいた。その中にはイギリス皇太子ギリシャ王プロイセン皇帝ロシア皇帝スウェーデン王ポルトガル王エジプト副王がいた。オルタンスの楽屋は当時の名士たちの会合の場所となっていた。幕間にヨーロッパ中の名士たちが駆けつけたので、彼女の楽屋は「王たちの道」とあだ名をつけられたほどであった。パリは万国博に訪れた君主たちに示したのと同じ歓迎を『ジェロルスタン女大公殿下』に示していた。オッフェンバックはオペレッタの王と崇められ、オルタンス・シュネデールはその王妃であった」[1]。シュネデールの当時の名声についての興味深い逸話がある「ある午後、オルタンスは博覧会の中央入口の前にいた。鋳物と金メッキの青銅でできたブルドネ通りのこの記念碑的格子門は王家の一族でない限り入れないことになっていた。ところが、パリの最も見事な馬に引かれた無蓋の軽四輪馬車に堂々と身を横たえて、彼女は命じた〈開けなさい!〉。呆気に取られた門番たちが口々に言う〈それは無茶です〉〈この御用門を開けさせる権利が皇帝陛下か皇后陛下、王様か王女様、皇太子殿下か妃殿下に限られているのですから〉。するとオルタンスは比類ない口調で言い放った〈ジェロルスタンの女大公であるぞ!〉。すると門が開いたのである。オルタンス・シュネデールは勝ち誇って1867年の万国博覧会を記念する入場門をくぐった」のであった[4]。本作は普仏戦争が目前に迫ったフランス第二帝政下で反軍国主義であるとして、数年間は上演禁止となった[5]



リブレットドロネーによるメイヤックリュドヴィク・アレヴィ

アンリ・メイヤック(英語版)とリュドヴィク・アレヴィ(英語版)はオッフェンバック作品のリブレットを数多く担当したコンビで、他に『美しきエレーヌ』(1864年)、『パリの生活』(1866年)や『青ひげ』(1866年)、『ラ・ペリコール』(1868年)でもリブレットを担当し、オッフェンバックと彼ら2人は名トリオとして一世を風靡した。アラン・ドゥコーによれば「オッフェンバックは『ジェロルスタン女大公殿下』を『パリの生活』と変わらない風刺の精神で作曲した。勿論、2人の友人がリブレットを書いた。3人とも本能的に、好戦的風潮とその行き着く先である戦争に恐怖を感じていた。絶対権力がほとんど例外なく武力紛争を生じさせる火種であることを、彼らは明察していた。国王たちがパリにやって来るのであれば、彼らに戦争と絶対権力の風刺を分からせようではないか。賭けは『パリの生活』より遥かに危険だ。しかし、オッフェンバックは気にするふうもなかった。今や彼は自分の観客に発揮する手腕に自信を持っていた。観客を思う壺にはめるアブラカタブラ(おまじない)のひとつやふたつ知らないわけはないのだ。他のどの作品にも増して、彼は完璧な舞台装置と、このオペレッタの滑らかな進行に気を配った」[6]。第3幕のゲーテ劇詩ファウスト』の「トゥーレ王の歌」を題材にした「酒飲みのバラード」はベルリオーズの『ファウストの劫罰』とグノーの『ファウスト』のパロディとなっている。ベルリオーズとグノーの音楽は使われていないが台詞だけで十分な効果を発揮している」と指摘している[7]
楽曲モンマルトル墓地のオッフェンバック像

「幻惑させられるような台本のみでも成功には十分であったかもしれないが、それ以上にジャコモ・マイアベーアの『ユグノー教徒』の《短刀の祝別、 Benediction des poignards》をパロディ化した陰謀家たちの合唱や《ピフ・パフ、Piff Paff》という歌、《ああ!私は軍人が好き》というロンド、《私の父の剣》という小唄、魅惑的な伝説《ああ!飲んでいた時の私の祖先》、そして、優しく滑稽な《言って下さい!》という2重唱などの曲によって、その成功をより豊かなものにしている」[1]。さらに、「オッフェンバックは本作をシュネデールの作品と考えて、彼女が観客に圧倒的な支配力を見せつける機会でなければならなかった。彼女となら大勝利の高みへと飛翔できるとオッフェンバックは確信していた」のである[6]。なお、マイアベーアの『ユグノー教徒』をパロディの対象にした点について、ダヴィット・リッサンはマイアベーアを悪趣味な作曲家として愚弄しようとしたわけではなく、この時代の人気のある音楽を文化的比較参照の対象としたものと見ている[8]。例えば、第1幕のフィナーレは二つのグループが相反する感情を表明するグランド・オペラのパロディのひとつだが、パロディだけがこの場面における滑稽な要素ではない。女大公のヒステリーは他のソリストよって繰り返される旋律の大きな跳躍によって表現されているだけに笑いを誘う[9]。最後にリッサンは『美しきエレーヌ』や『パリの生活』では見られなかった音楽的な活力の蘇りが本作には見られると結んでいる[3]
日本での受容

日本初演は1879年、ヴァーノン歌劇団によって横浜ゲーテ座にて行われた[10]。10年に及ぶ浅草オペラにおいて1918年4月に原信子歌劇団が『女大公殿下』のタイトルで本作を観音劇場にて上演し、同年7月には東京歌劇座は10月に『戦争と平和』のタイトルにて日本館にて上演している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef