ジェレミー・ブレット
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ジェレミー・ブレット
Jeremy Brett

本名Peter Jeremy William Huggins
生年月日 (1933-11-03) 1933年11月3日
没年月日 (1995-09-12) 1995年9月12日(61歳没)
出生地 イングランドウォリックシャー州
国籍 イギリス
職業俳優
活動期間1954年 - 1995年
配偶者アンナ・マッセイ(1958年 - 1962年
ジョアン・ウィルソン(1976年 - 1985年
主な作品
映画
戦争と平和
マイ・フェア・レディ』テレビドラマ
シャーロック・ホームズの冒険
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ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett, 本名:Peter Jeremy William Huggins, 1933年11月3日 - 1995年9月12日) は、イギリス俳優
来歴・人物
生い立ち

イングランドウォリックシャー州(現在はウェスト・ミッドランズ)バークスウェルに、州地方長官の息子として生まれる。出生年月は諸説あり、1933年11月3日または12月3日に生まれたとされるが、1935年に生まれたとの出典も存在する[1]

四人兄弟の末っ子であり、ブレットは幼少期から歌を歌ったり演劇を観るのが好きで、8歳の頃から俳優になりたかったと話している[2]

一族は食品会社キャドバリー社の経営者一族であったため、ブレットは恵まれた環境で育った。パブリック・スクールの名門イートン校に進むが、在学中はディスレクシアのために苦労したという。

親戚に、イギリスの国民的人気ドラマ『ドクター・マーチン(英語版)』の主役として有名なマーティン・クルーンズ(英語版)がいる。
舞台・映画での活動

セントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマで演技を学び、1954年マンチェスターで初舞台を踏む。俳優となったことでの家名の不名誉を避けるべしとの父の要求により、初めて着たスーツのラベルに書かれていた「Brett & Co.」という店名に因み「ジェレミー・ブレット」という芸名を名乗る。1956年には『リチャード2世』のオーマール公役でブロードウェイに進出した。

1958年に女優のアンナ・マッセイ(俳優レイモンド・マッセイの娘)と結婚したが、1962年に離婚。ブレットが男性と不倫して自分のもとを離れたためだとマッセイは主張している[3][4]。マッセイとの間に生まれた息子のデイヴィッド・ハギンズはイラストレーター小説家となった。

1967年から1971年にかけて、当時ローレンス・オリヴィエが率いていたナショナル・シアター・カンパニーに参加し、シェイクスピア作品をはじめとする多数の舞台に出演している[5]

ブレットは1960年代から多くのテレビドラマにも出演した。初期に主演したものでは、『Armchair Theatre』(ITV)シリーズで放送された『ドリアン・グレイの肖像』(1961年)は特に評価が高く[6]、その後のブレットの華々しいキャリアを指し示すものとなった。さらに、1966年BBC版ドラマ『三銃士(英語版)』でのダルタニャン役や、ローレンス・オリヴィエがシャイロックを演じた1973年のATV版『ヴェニスの商人』でのバサーニオ役などが有名である。

映画では、アメリカイタリア合作でトルストイの原作を映画化した『戦争と平和』(1956年)に出演。ナターシャの兄役として、オードリー・ヘプバーンヘンリー・フォンダと共演している。

最も知名度の高い映画への出演としては、1964年の映画『マイ・フェア・レディ』がある。ブレットはオードリー・ヘプバーン演じる主人公に思いを寄せる若き貴族フレディを演じた。ちなみに、フレディがイライザの住む家を見上げるシーンで、有名なナンバー「君住む街角」(On the Street Where You Live)が歌われている。ただし、ブレット自身の歌声も美声ではあるが、ここでの歌はビル・シャーリー(英語版)による吹き替えである[注釈 1]

1969年の映画『女王陛下の007』ではジェームズ・ボンド役の候補に名前が挙がるが、結局ジョージ・レーゼンビーがボンド役を獲得した。また、『007 死ぬのは奴らだ』のオーディションも受けたが、結局ボンド役を得ることはなかった。

1971年には、イギリス=アメリカ合作映画の『ニコライとアレクサンドラ』に、クレジットはされていないもののロシア人の軍人役で出演している[注釈 2]

1976年、7年間交際していた俳優のゲイリー・ボンド(英語版)と破局し[7][8]、アメリカ人プロデューサーのジョアン・ウィルソンと再婚する。1973年から1978年にかけては俳優のポール・シェナー(英語版)とも恋愛関係にあった[9]

結婚後にはアメリカに移住し、『The Love Boat』(1977年 - 1986年)や、『超人ハルク』(1977年 - 1982年)、『Hart to Hart』(1979年 - 1984年)、『宇宙空母ギャラクティカ』(1980年)などの人気ドラマシリーズにも出演した。アメリカでの知名度と人気の上昇は、アメリカでの放送も念頭に置かれて企画されたグラナダテレビ制作の『シャーロック・ホームズの冒険』主演への抜擢にも繋がっていくことになる。

10年間の結婚生活の後、1985年7月にウィルソンが癌で亡くなった後は再婚することはなかった。1988年12月のTVTimesのインタビューでブレットは「Joan was my confidence and without her there was no reason to go on.(彼女は私の自信だった。彼女なしでは人生の意味を持てなかった)」とその深い悲しみを語っている[10]

1978年、アメリカでの舞台『ドラキュラ(英語版)』の主役に抜擢されて大きな成功を収めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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