ジェレミー・パウエル
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ジェレミー・パウエル
Jeremy Powell
福岡ソフトバンクホークス時代
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州ミラダ
生年月日 (1976-06-18) 1976年6月18日(47歳)
身長
体重196 cm
104 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1994年 MLBドラフト4巡目
初出場MLB / 1998年7月23日
NPB / 2001年6月24日
最終出場MLB / 2000年10月1日
NPB / 2008年8月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ハイランズ高校

モントリオール・エクスポズ (1998 - 2000)

大阪近鉄バファローズ (2001 - 2004)

オリックス・バファローズ (2005)

読売ジャイアンツ (2006 - 2007)

福岡ソフトバンクホークス (2008)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ジェレミー・ロバート・パウエル(Jeremy Robert Powell, 1976年6月18日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ミラダ出身の元プロ野球選手投手)。

2005年の登録名は「JP」。
経歴
プロ入りとエクスポズ時代

1994年、ハイランズ高校からドラフト4巡目(全体112位)でモントリオール・エクスポズに入団。

1998年にメジャーデビュー。
パドレス傘下時代

2000年のオフにサンディエゴ・パドレスへ移籍。

2001年、3Aポートランドでプレーした。
近鉄時代

2001年6月7日、ショーン・ギルバートと共に大阪近鉄バファローズに入団。4勝しかできなかったもののローテーションを守り、リーグ優勝に貢献。9月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、日本シリーズのために練習として打席に立つと、犠打が結果的に内野安打となったため、来日初打席初安打を記録している。指名打者制導入以後において近鉄の投手が打席に立って安打を記録するのはこれが最初で最後。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第1戦・第5戦で先発登板を果たしたものの、両試合とも敗戦投手となった。なお近鉄は後述の通り合併して55年の歴史に幕を閉じたことから、この日本シリーズが近鉄最後の日本シリーズとなり、近鉄の日本シリーズ最後の先発投手となり、最後の敗戦投手となった。

2002年には17勝10敗、182奪三振で最多勝・最多奪三振・最優秀投手を獲得、ベストナインにも選出された。この年はケビン・ホッジスヤクルト)も17勝で最多勝となっており、史上2度目となる「セ・パ両リーグで外国人投手が最多勝に輝く」こととなった。

2003年は前年より成績を落としたものの14勝を挙げる。

2004年はさらに成績を落として8勝に終わる。
オリックス時代

2004年のプロ野球球団合併問題によって、分配ドラフトでオリックス・バファローズへ移籍。

2005年から仰木彬の勧めで登録名をJPに変更する。開幕前には川越英隆ケビン・バーン(登録名はケビン)と共に先発三本柱として期待され、チーム最多の14勝を挙げた。また、チーム唯一の規定投球回到達投手だった。同年から始まったセ・パ交流戦では、5月11日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で、交流戦における投手第1号本塁打を内海哲也から放った。シーズンオフに残留交渉が難航し、12月2日に自由契約となる。
巨人時代

2005年12月15日、読売ジャイアンツへの入団が発表され、登録名を本名に戻した。

2006年は開幕から先発ローテーションに入り、3試合連続完投勝利、初めの2回は2連続完封を含む4連勝で4月の月間MVPを獲得。5月9日の対オリックス・バファローズ戦でも先発し、8回4失点で古巣から勝利を挙げた。しかし、6月2日の対西武ライオンズ戦(東京ドーム)で高山久に頭部死球を与えて初の危険球退場となった。後半戦は勝ち星をのばせなかったが、2年連続で二桁勝利をあげた。

2007年、キャンプ中に右膝半月板を損傷し、帰国して修復手術を受けた。フェニックスのトレーニング施設でリハビリを続け、5月28日に再来日。首脳陣の投手の谷間先発起用、本人の「完璧な状態に戻したい」という意向も重なり、昇格は7月28日の対広島東洋カープ戦にまでずれ込んだ(5回3失点)。登板した試合では打ち込まれ、手術の影響が心配された反面、広いナゴヤドームでは9回1失点に抑えて9三振を奪っている。結局レギュラーシーズンで勝ち星を挙げることはできず、来日後初の未勝利に終わった。同年11月29日、デーモン・ホリンズジェレミー・ゴンザレスと共に戦力外通告を受け、11月30日に自由契約公示された。
ソフトバンク時代

二重契約問題(下記参照)を経た後、2008年3月4日福岡ソフトバンクホークスの支配下選手として公示された。

開幕には間に合わなかったが、4月15日の対オリックス戦で登板し、6回2失点に抑えて初勝利を挙げた。しかし、その後は右膝手術の影響で調子が上がらず、大半をウエスタン・リーグで過ごした。2勝6敗と期待を大きく裏切り、10月12日に2度目の戦力外通告を受けた。
パイレーツ傘下時代

2009年1月7日にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を交わした。オフの11月9日にFAとなったが、12月14日にパイレーツとマイナー契約で再契約を結んだ。

2010年はパイレーツのキャンプに3Aの招待選手として参加した。シーズン終了後の11月6日にFAとなり、現役を引退。
現役引退後

引退後はマイアミ・マーリンズ傘下の各球団で指導者の道を歩み、2012年からはルーキー級GCLマーリンズ(英語版)、2014年からはA-級グリーンズボロ・グラスホッパーズ2016年からはA+級ジュピター・ハンマーヘッズ2018年からはAAA級ニューオーリンズ・ベビーケークス2021年からは新たにAAA級格付けとなったジャクソンビル・ジャンボシュリンプで投手コーチを務めている[1]
人物

2001年 - 2005年の背番号25は、自身が来日したときの年齢に由来する。

巨人移籍で登録名を本名に戻したが、巨人でもオリックス時代と同様に「JP」と呼ばれることがあった。

本人によると、持ち球の落差のあるカーブは少年時代でしか投げていなかったものだったが、プロ野球でその必要性を感じ、解禁したのだという。
乱闘騒ぎ

2002年10月10日、千葉マリンスタジアムでの対ロッテ戦でパウエルがロッテ堀幸一初芝清に死球を与えたことから両軍がベンチから一斉に飛び出しマウンド上で小競り合いに。一旦は収まりかけたが、その後、パウエルとロッテのコーチ山下徳人が殴りあいになり、両チーム総出の大乱闘に発展。


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