時1560年5月9日-5月14日
場所チュニジア沿岸のジェルバ島近辺
結果オスマン帝国の勝利[1]
衝突した勢力
キリスト教連合
ジェノヴァ共和国
ヴェネツィア共和国
スペイン
教皇領
サヴォイア公国
マルタ騎士団オスマン帝国
指揮官
ジャナンドレア・ドーリア
メディナセリ公ファン・デ・ラ・チェルダ
ジェルバ島の戦いは、1560年5月、チュニジアのジェルバ島付近で行われた戦い。ピヤル・パシャ(英語版)率いるオスマン帝国軍が、スペイン・教皇領・マルタ・ナポリの各軍を主体とする大規模なキリスト教連合艦隊を打ち破った。連合艦隊は防衛拠点であるジェルバ島と、27隻のガレー船とその他小型艇を失った。この勝利は、地中海においてオスマンの影響力を強く印象づけたと考えられる。[4]
1573年頃まで、フェリペ2世支配下のスペインにおいて地中海方面戦略は最優先事項に位置づけられていた。 彼の指揮のもとにハプスブルク家のガレー艦隊は100隻規模にまで増強され、戦時下ではさらに補強が図られた。1560年、スペインはオスマン勢力に対抗するため、主要艦隊をトリポリ西岸付近のジェルバ島へ送り込んだ。オスマン軍はここで華々しい戦果を挙げ、10,000人を殺害し多数の船を撃沈した。しかしながら、この後に地中海で行われた主要な海戦において、彼らは勝ち続けることが出来なかった。スペインは戦後の2年間で艦隊を立て直し、1563年から1564年にかけて新たな防衛戦のために100隻の艦隊を用意した。オスマン帝国はこの戦で勝利しながら、ヴェネツィアに揺さぶりをかけることが出来なかったのである[1]。 1538年のプレヴェザの海戦においてバルバロス・ハイレッディン率いるオスマン帝国艦隊に敗北し、1541年カール5世による大規模なアルジェ遠征が行われて以来、スペインやヴェネツィアを主体とした地中海世界のヨーロッパ勢力は、オスマン勢やバルバリア海賊らをより一層脅威と考えるようになった。実際、1558年ピヤル・パシャ 歴史家ウィリアム・H・プレスコット
背景
戦力
1560年2月10日、艦隊はトリポリへ向けて出航した。乗船していた兵士数は正確には分からない。ブローデルは10,000から12,000人であるとし、テスタは14,000人としている。古い研究では20,000人以上とされているが、これは16世紀当時のガレー船に乗船可能な人数を大きく見積もりすぎていると言えよう。
遠征隊はトリポリからさほど遠くない地点に上陸できたが、飲料水の欠乏・疫病・悪天候のために当初の目標地点を放棄し、3月7日[10]に通過地点だったジェルバ島へ戻った。当時、さきにシチリア島において勝利を収めたメディナセリ公ファン・デ・ラ・チェルダ(英語版)がこの島に要塞を築くよう命じられており、建設が始められたばかりであった。同日ごろ、オスマン帝国側のガレー船・ガリオット船86隻からなる艦隊は、ピヤル・パシャに率いられイスタンブールから航行を開始した。オスマン艦隊は1560年5月11日にジェルバ島に到着したが、キリスト教側の軍はこれを予測できていなかったとされる。[11] 戦闘は数時間のうちに、キリスト教側のガレー船半数以上が撃沈・拿捕されたことで決着がついた。アンダーソンは[12]キリスト教側の死傷者を18,000人としているが、グリマーティン[13] はもう少し控えめに見積もっており、損失は9,000人程度で、かつその半分から3分の1は漕手であって兵ではないとしている。 残存兵は完成したばかりの要塞へ退避し、ピヤル・パシャとチュルガット・レイース(彼は戦闘開始から3日目に合流した)がすぐにこの要塞を襲撃したが、彼等の到達前にジャナンドレア・ドーリアの指揮により小型艇での脱出がはかられた。のち3か月に及ぶ攻防の末に防衛部隊は投降した。ボシオによれば、この時ピヤル・パシャは約5,000人の捕虜をイスタンブールに連行しており、その中にはドーリア撤退後の総指揮を執っていたスペイン側の指揮官ドン・アルバロ・デ・サンデ
戦闘