ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー
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ジェローム"ジェリー"リーバー(Jerome "Jerry" Leiber、1933年4月25日 - 2011年8月22日[1] と、マイク・ストーラー(Mike Stoller、1933年3月13日 - )[2] は、アメリカソングライターにして音楽プロデューサーのコンビ。

ストーラーが作曲でリーバーが作詞を担当。「リーバー=ストーラー」と呼ぶ場合が多い。エルモ・グリック(Elmo Glick)という変名が使用されることもある[3]

最も有名な歌は「スタンド・バイ・ミー」「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」「ドント」「カンサス・シティ」「オン・ブロードウェイ」など。
概要

彼らの最初の成功は「ハウンド・ドッグ」「カンサス・シティ」などだった。1950年代後半、ザ・コースターズの諸作品で、ヒット曲を量産した。それらはティーンエイジャーたちのユーモラスな語法を用い、ロックンロールの歴史の一部になった。歌のスタイルは、十代の若者向きであった。「ヤング・ブラッド(英語版)」「サーチン」(以上2曲はビートルズがカバーした)「ヤケティー・ヤック」などが作品例である。[4]

彼らはブラック・ミュージックを白人の作曲家として取り入れた、最も初期の作曲家チームだった。1959年の「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」ではストリングスを導入し、ドリフターズの歌の情感を引き出し、フィル・スペクターに刺激を与えた(スペクターはドリフターズやベン・E・キングのレコーディングで彼らを手伝っていた)。

その後、レコード・ビジネスに参入し、ガール・グループ・サウンドに集中することでブリル・ビルディング時代の古典の数々を録音した。[5]

また、エルヴィス・プレスリーのために「ラブ・ミー」「監獄ロック」[6]「ラヴィング・ユー」「ドント」「キング・クレオール」などを書いた。[7]

1985年「ソングライターの殿堂」、1987年ロックの殿堂入り。[8]
生涯
初期

両者ともユダヤ系家族に生まれる。リーバーはメリーランド州ボルチモア、ストーラーはニューヨーク州ロングアイランド出身。1950年にロサンゼルスで出会った。ストーラーがロサンゼルス・シティー・カレッジの1年生で、リーバーがフェアファックス高校の3年生だった。ストーラーはベルモント高校を卒業していた。放課後ストーラーはピアノを弾き、リーバーはフェアファックス・アベニューの「ノーティーの店」というレコード店で働いていた。[9]

彼らが出会ったとき、お互いにブルースリズム・アンド・ブルースへの愛を共有していることがわかった。そして1950年(17歳)、ジミー・ウィザースプーンが彼らの最初の歌「Real Ugly Woman」を録音した。

映像外部リンク
2007年のインタビューで二人が語る。 NAMM (National Association of Music Merchants) Oral History Library

最初のヒットは「ハード・タイムス」で、チャールズ・ブラウン が録音し、1952年にR&Bチャートでヒットになった。「カンサス・シティ」は初め「K. C. ラヴィング」としてR&B歌手リトル・ウィリー・リトルフィールド(英語版)が録音し、ウィルバート・ハリスンのバージョンが1959年にポップ・チャートで1位となった。
「ハウンド・ドッグ」の成功

1952年、「ハウンド・ドッグ」を書き、ブルース歌手ビッグ・ママ・ソーントンが歌い[6]、翌年ヒットした。1956年のエルヴィス・プレスリーのロック・バージョンは、ラスベガスのキャバレー歌手フレディー・ベルの1955年のバージョンをカバーしたものであり、宇宙的ヒットになった。[10][6]そしてこのリーバー=ストーラー作品は永遠にプレスリーのものとなった。

以降の彼らの作品の歌詞はポップ性を増し、リズム・アンド・ブルースとポップの歌詞の融合はポップ、ロックンロールに革命を起こした。
スパーク・レコード設立

1953年、彼らの師匠であるレスター・シルとスパーク・レコード設立。この時期の作品には「スモーキー・ジョーズ・カフェ(英語版)」「ライオット・イン・セル・ブロック#9」がありロビンズ(後のコースターズ)が録音した。[11]

レーベルは後にアトランティック・レコードが買い、リーバー=ストーラーは「他のレーベルで仕事してもいい」という革新的な契約で雇われた。結果として彼らは史上初の独立レコード・プロデューサーとなった。[11]アトランティックで彼らはドリフターズのキャリアを復活させ、コースターズの一連のヒット「チャーリー・ブラウン」「サーチン」「ヤケティー・ヤック」[12]、「スタンド・バイ・ミー」(ベン・E・キング)、「オン・ブロードウェイ」(ドリフターズ)などを書いた。コースターズ作品で全米チャートに現れた物だけでも24曲ある。

1955年に「ブラック・デニム・トラウザーズ・アンド・モーターサイクル・ブーツ」を白人ボーカル・グループ「チアーズ」で録音し[11]、 直後にエディット・ピアフがフランス語のタイトル「L'Homme a la Moto」(『バイクの男(英語版) 』)で同曲をカバーした。チアーズの別の曲「バズーム(アイ・ニード・ユア・ラヴィン)」のヨーロッパでの印税で1956年にストーラー夫妻はヨーロッパに旅行しピアフに会った。彼らがニューヨークに戻るとリーバーは「『ハウンド・ドッグ』がエルヴィス・プレスリーでヒットしたよ!!」と報告したが[10]、ストーラーから「エルヴィス…だれ?」と返された。

彼らはプレスリーのためにさらにヒット曲を書き、プレスリー主演の3本の映画『ラヴィン・ユー』『監獄ロック[13] 『キング・クレオール』の主題歌も書き、彼の最初のクリスマス・アルバムにロックンロールのクリスマス・ソング「サンタが町に来る」も書いた。


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