ジェリー・ブラウン
プロフィール
リングネームジェリー・ブラウン
本名ジェラルド・ブラウン
ニックネームハリウッド・ブロンド
黄金の人間爆弾
金髪の爆撃機[1]
身長185cm[2] - 188cm[3]
体重104kg[2] - 113kg[3]
誕生日 (1937-05-10) 1937年5月10日(87歳)[3][4]
出身地 アメリカ合衆国
ミネソタ州
フリーボーン郡アルバート・リー[3][4]
トレーナーチャーリー・アドコックス
ボブ・オートン[5]
引退1983年[3]
テンプレートを表示
ジェリー・ブラウン(Gerald "Jerry" Brown、1937年5月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、ミネソタ州アルバート・リー出身。
バディ・ロバーツとのタッグチーム、ハリウッド・ブロンズ(The Hollywood Blonds)での活動で知られる。 ミネソタ州アルバート・リーにて生誕後、母親の死に伴いアイオワを経てカンザスシティに転居[5]。そこでプロレスの虜となり、チャーリー・アドコックスやボブ・オートンの指導のもと、ボブ・ガイゲル主宰のセントラル・ステーツ・レスリングにてデビュー[5]。 その後、レロイ・マクガークが運営していたオクラホマのNWAトライステート地区に転出。"ダンディ" ジャック・ドノバンのパートナーとなり、髪をブロンドに染めたヒールのタッグチーム、ハリウッド・ブロンズ(The Hollywood Blonds)を結成するが、ドノバンが足首を負傷して戦線を離脱[5]。後任にオクラホマ出身の若手選手バディ・ロバーツを迎え、サー・オリバー・フンパーディンクをマネージャーに、1970年よりタッグチームとしての本格的な活動を開始した[5]。 以降、チームのリーダーとなって若いロバーツを巧みに動かし、フロリダ、ロサンゼルス、ミッドアトランティック、ミッドアメリカなど各地区のタッグタイトルを奪取[4]。日本には1971年10月と1974年1月に国際プロレスに参戦して、IWA世界タッグ王座に連続挑戦(1971年の初来日時には、12月2日の千葉大会において、シングルでストロング小林のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦している)[6][7]。1975年8月にはロサンゼルスにてアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦、同月に新日本プロレスに来日して同王座を獲得するなどの実績を残した[1][8]。
来歴