ジェラルド・R・フォード
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ジェラルド・フォード
Gerald Ford

大統領公式肖像(1974年8月)
アメリカ合衆国
第38代 大統領
任期1974年8月9日1977年1月20日
副大統領不在(1974年)
ネルソン・ロックフェラー(1974年?1977年)
アメリカ合衆国
第40代 副大統領
任期1973年12月6日 – 1974年8月9日
大統領リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国
下院議員
任期1949年1月3日 – 1973年12月6日

出生1913年7月14日
アメリカ合衆国  ネブラスカ州 オマハ
死去 (2006-12-26) 2006年12月26日(93歳没)
アメリカ合衆国  カリフォルニア州 ランチョ・ミラージ
政党共和党
出身校ミシガン大学
配偶者ベティ・フォード
子女マイケル・ジェラルド・フォード
ジョン・ガードナー・フォード
スティーヴン・フォード
スーザン・フォード
署名

ジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニア(Gerald Rudolph Ford Jr.、1913年7月14日 - 2006年12月26日[1])は、アメリカ合衆国政治家。同国第38代大統領(在任: 1974年8月9日 - 1977年1月20日)。

この他下院議員、第40代副大統領を歴任した。共和党所属。再婚した実母の連れ子として改名するまでの名は、レズリー・リンチ・キング・ジュニア(Leslie Lynch King, Jr.)。

1973年スピロ・アグニューが副大統領を辞任した後、大統領の指名と上下両院の承認を得て副大統領に就任した。これは史上初のケースである。さらに翌1974年にはリチャード・ニクソンの大統領辞任を受けて、大統領に昇格した。現職として戦った1976年の大統領選挙には敗れているので、2024年現在、大統領選挙に勝利して選出されたことのない唯一のアメリカ大統領である。
生い立ち

レズリー・リンチ・キングドロシー・エア・ガードナーの夫妻の子供として、ネブラスカ州オマハで生まれた。フォードの当初の名前はレズリー・リンチ・キング・ジュニアであった。彼が生まれたころから、父レズリー・キングは母ドロシーに暴力を振るうようになり、耐えられなくなった彼女は実家へ逃げるように去った。

これだけでも当時の女性としては異例の行動であったが、彼女はさらに夫を訴えた。オマハの裁判所はキングに有罪判決を言い渡した。彼が生まれて2年後、両親の離婚が成立し、その後母親はジェラルド・ルドルフ・フォードと再婚した。フォードはその後にジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニアと改名された。養父と母の間の子供(フォードの異父弟)にトーマス・ガードナー・フォード(英語版)がいる。フォードはミシガン州で成長し、ミシガン大学に入学した。大学ではフットボール部に所属し、全米代表に選出されるほどの名選手であった。一方で苦学生であった彼は、学費を稼ぐために複数のアルバイトをしていた。フォードは大学卒業後、NFLグリーンベイ・パッカーズデトロイト・ライオンズから誘いを受けたが、イェール大学ロー・スクールに入学し、弁護士資格を取得している。
第二次世界大戦

日本海軍による真珠湾攻撃によりアメリカが第二次世界大戦に参戦してから5ヵ月後の1942年4月に、フォードは予備役少尉として海軍に入隊した。アナポリス海軍兵学校でのオリエンテーション・プログラムの後に、フォードはノースカロライナ州チャペル・ヒルの海軍飛行学校で運動教官になった。

1943年春にフォードは軽空母モンテレー (USS Monterey, CV-26) に着任した。フォードは最初に運動管理官および砲術士官として配属された。その後、補助ナビゲーターとして、トラックサイパンおよびフィリピンを含む太平洋でほとんどの作戦に参加した。フォードがその任務で最も死の危険に近づいたのは1944年12月のフィリピン海で、それは敵である日本海軍によるものではなく巨大な台風によるものだった[2]。モンテレーは嵐と火災による破損で任務を解かれ、フォードは戦争の残りを陸上任務で過ごし、戦争終結後の1946年2月に少佐として除隊された。
下院院内総務

フォードは1949年から1973年まで24年間下院議員で、1965年には下院の院内総務になった。前年の1964年の選挙で、共和党は下院での議席を減らした。当時の院内総務はインディアナ州選出の長老チャールズ・ハレック(英語版)下院議員であった。

フォードは党の若返りを図ろうとするチャールズ・グッデル(英語版)下院議員、ドナルド・ラムズフェルド下院議員ら若手のリーダー格であり、彼らに推され院内総務選挙に挑戦、勝利した。下院時代に、フォードはジョン・F・ケネディ大統領の暗殺原因を調査、また関する噂を押さえるために設立された特別対策本部、ウォーレン委員会のメンバーに選ばれた。委員会は、リー・ハーヴェイ・オズワルドが単独で暗殺を実行したと結論を下した。

また、フォードは1964年のジョンソン政権下で成立した公民権法及び1965年の投票権法の成立に大きな役割を果たした。公民権問題に関してはジョンソン政権に協力する一方、大統領の「偉大な社会(英語版)」計画の大半には下院共和党のリーダーとして反対の先頭に立った。フォードは共和党の上院院内総務であるエヴァレット・ダークセン上院議員と共にテレビに定期的に出演し、ジョンソン政権の政策に代わる共和党の政策をアピールした。この番組は大きな反響を呼んだ。
副大統領職「1973年アメリカ合衆国副大統領承認」も参照


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