ジェラルディン・フェラーロ
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アメリカ合衆国政治家ジェラルディン・フェラーロGeraldine Ferraro

生年月日 (1935-08-26) 1935年8月26日
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューバーグ
没年月日 (2011-03-26) 2011年3月26日(75歳没)
死没地 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン
出身校メアリーマウント・マンハッタン大学(学士
フォーダム大学法務博士
所属政党民主党
配偶者ジョン・ツァッカロ
(1960年7月 - 2011年3月)
子女3人
サイン
アメリカ合衆国
国際連合人権理事会大使
在任期間1993年3月4日 - 1996年10月11日
大統領ビル・クリントン
アメリカ合衆国下院
民主党幹部会書記
在任期間1981年1月3日 - 1985年1月3日
大統領ジミー・カーター
ロナルド・レーガン
アメリカ合衆国
下院議員
選挙区 ニューヨーク州第9選挙区
在任期間1979年1月3日 - 1985年1月3日
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ジェラルディン・アン・フェラーロ(英語: Geraldine Anne Ferraro、1935年8月26日 - 2011年3月26日)は、イタリア系カトリック、アメリカ合衆国政治家外交官弁護士国際連合人権理事会大使、下院民主党幹部会書記、ニューヨーク州選出連邦下院議員を歴任し、1984年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党副大統領候補であった。これによりアメリカ合衆国の主要政党では初の女性副大統領候補となった。またジャーナリスト作家実業家としても活躍した。
略歴
初期

1935年8月26日にニューヨーク州ニューバーグに誕生した。

公立学校の教師を経て弁護士となり、1974年1月にクイーンズ郡地方検察局に入局した。性犯罪・児童虐待・家庭内暴力などを扱う新設の特別捜査局の局長に就任した。

1979年1月に連邦下院議員となり、賃金・年金・退職金などの分野で女性の平等を実現するための法案に注力しながら、党内で急速に頭角を現した。
1984年アメリカ合衆国大統領選挙

1984年7月に形勢不利と見られていた民主党の大統領候補のウォルター・モンデール前副大統領によって副大統領候補に選ばれ、広く認知されたイタリア系アメリカ人として初めて主要政党の正副大統領候補となった[1]。また、主要政党の大統領・副大統領選挙に立候補した初の女性候補でもあった。モンデールとフェラーロの立候補に対し、当初世論は好意的な反応を示していたが、フェラーロと実業家の夫の財務・資産・議会での情報開示について不利となる疑惑が生じたため、勢いはすぐに失速して本選挙では現職のロナルド・レーガン大統領とジョージ・ブッシュ副大統領に大差で敗北した。

また、フェラーロが中絶に反対する教説を有するカトリックでありながら、中絶政策を容認していたことで、中絶を巡って論争が起きた。これには、ニューヨーク州知事マリオ・クオモ、当時上院議員であったジョー・バイデンダニエル・パトリック・モイニハン等のカトリックの政治家も巻き込まれた[2]
その後

1992年11月と1998年11月のニューヨーク州選出の連邦上院議員選挙に立候補し、いずれも党の筆頭候補に挙げられたが予備選挙で敗北した。

1993年3月から1996年10月にはビル・クリントン政権で国際連合人権理事会の大使を務めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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