ジェミニ計画
[Wikipedia|▼Menu]

ジェミニ計画
アメリカ合衆国
組織NASA
目的.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

有人地球周回飛行

船外活動

ランデブードッキング

状況完了
概要
費用

13億ドル(1967年)[1]

期間1961年 ? 1966年
初飛行

ジェミニ1号

1964年4月8日 (1964-04-08)

初有人飛行

ジェミニ3号

1965年3月23日 (1965-03-23)

最終飛行

ジェミニ12号

1966年11月11日 (1966-11-11)

成功10
部分的失敗2 (ジェミニ8号ジェミニ9-A号)
射場ケープカナベラル空軍基地
宇宙機
有人機ジェミニ宇宙船
乗員数2名
打ち上げ機.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}

アトラス・アジェナ

タイタンII GLV

ジェミニ計画(ジェミニけいかく、英語: Project Gemini)は、アメリカ合衆国航空宇宙局(NASA)の二度目の有人宇宙飛行計画である。1961年から1966年にかけ、マーキュリー計画アポロ計画の間に行われた。ジェミニ宇宙船は2名の宇宙飛行士を宇宙に送る能力があり、1965年から1966年までの間に10名の宇宙飛行士地球周回低軌道を飛行した。この計画により、アメリカは東西冷戦時代にソビエト連邦との間でくり広げられた宇宙開発競争において優位に立つこととなった。
概要

ジェミニの目標はアポロ計画で必須となる月面着陸のための技術を開発することで、に行って帰ってくるまでに必要とされる期間の宇宙滞在を達成し、船外活動によって宇宙船の外に出て活動を行い、ランデブードッキングの実行をする際に必要となる軌道操作の技術を切り開いた。これらの新技術が検証されたことにより、アポロ計画では基本試験を行うことなく、月飛行という本来の目的を遂行することができた。

宇宙船はすべてフロリダ州ケープカナベラル空軍基地19番発射施設から打ち上げられた。発射機には大陸間弾道ミサイルを改良したタイタンU型ロケットが使用された[Note 1]。またヒューストンジョンソン宇宙センターに新たに建設されたミッション・コントロールセンターが飛行管制に使用されたのも、この計画が初めてであった[Note 2]

計画を支えた飛行士には、マーキュリー・セブンと呼ばれるアメリカ最初の宇宙飛行士に加え、グループ2と呼ばれる第二次選抜隊および1963年に任命されたグループ3と呼ばれる第三次選抜隊が含まれていた。計画期間中にジェミニ9号で搭乗予定だった飛行士を含む3名が、訓練中の航空機事故により死亡している。9号は結局予備搭乗員によって遂行されたが、これは今日に至るまでNASAの歴史において唯一の事例であった。

ジェミニ宇宙船は性能が優れていたため、空軍有人軌道実験室 (Manned Orbital Laboratory, MOL) に使用することを検討していたが、MOL計画は後に中止された。ジェミニの主任設計官ジム・シャンベルリン (Jim Chamberlin) は、地球と月の間の宇宙空間を飛行し月面に着陸する詳細な計画を1961年の終わりに立案していた。彼はジェミニはアポロよりも早く、しかも安いコストで月面着陸を実行できると信じていたが、NASAの上層部はこの案を採用しなかった。1969年マクドネル・ダグラス社はジェミニを改良したビッグ・ジェミニという宇宙船を提案した。ビッグ・ジェミニはアポロ応用計画 (Apollo Applications Project, AAP) で使用される宇宙ステーションに一度で最大12名までの飛行士を送り込むことができるはずだったが、AAPで実現されたのは実存するアポロ宇宙船を使用するスカイラブ計画のみだったため、ビッグ・ジェミニが実行されることはなかった。
計画の発端と目的

1961年5月25日、人間を月面に着陸させるという現行のアポロ計画がジョン・F・ケネディ (John Fitzgerald Kennedy) 大統領によって認可された後、NASAの職員たちには、アポロを成立させるための特定の飛行技術を開発するには、マーキュリーに継続する何らかの計画が必要になることが明らかになった。

特にアメリカの有人宇宙飛行計画を推進するスペース・タスク・グループ (Space Task Group) の主任技術者であったジム・シャンベルリンは、すでに1961年2月の段階でマーキュリーとアポロの橋渡しをする計画を開始することを命じられていた[2]。同年3月、シャンベルリンはワロップス島にあるNASAの秘密施設で、ジェミニ計画に関する2種類の初期案を提出した[2]。7月にはセントルイスのマクドネル社で、ジェミニ宇宙船の原型となるマーキュリー・マークII宇宙船の縮尺模型が公開された[2]12月7日、NASAはジェミニ計画を承認し[2]、同月22日にはマクドネル社が宇宙船製造の主契約企業に指定された[3]

1962年1月3日に計画が公表された際、あらためて名称はジェミニ計画 (Project Gemini) と命名された。gemini(ゲミニー)はラテン語で「双子」あるいは「2人」を意味し、宇宙船が飛行士2名を搭乗させることを反映している。Geminiはまた黄道帯の第三星座であるふたご座の学名でもある。ただし、星座のGeminiは英語では「ジェミナイ」と読むが、「Project Gemini」の Geminiは「ジェミニ(ー)」(英語ではジェミニとジェミニーに発音の区別はない)と読む[4]

計画の主目的は、以下のとおりである[5]

月面着陸に要求される最少8日間から最大2週間にいたるまでの長期間の宇宙飛行に対する、人体や機器の耐久性を検証すること

他の宇宙船とのランデブーとドッキングを達成し、目標宇宙船の推進装置を使用して結合された両宇宙船の軌道操作を行うこと

宇宙船の生命維持環境の外に出て船外活動 (宇宙『遊泳』とも言う) を行い、宇宙環境での飛行士の任務達成能力を検証すること

大気圏再突入および予定された地点に帰還するための技術を完成させること[Note 3]

組織

人員2名を搭乗させるジェミニ宇宙船の設計は、カナダ人のジム・シャンベルリンが行った。シャンベルリンはジェミニ計画に参加する以前は、アブロ・カナダ社のアブロ・カナダ CF-105要撃機計画における主任空気力学者であった[6]。彼がアブロ社の25人の部下の技術者とともにNASAに参加したのはCF-105計画が中止になったあとのことで、スペース・タスク・グループにおけるジェミニ計画の技術部門の責任者に任命された[6][7]。また元請企業はマクドネル・エアクラフト社であり、同社はマーキュリー計画の宇宙船の製造も担当していた[3]

ジェミニ宇宙船の開発と設計に深く関わっていたのは宇宙飛行士のガス・グリソム (Gus Grissom) で、他の飛行士たちはジェミニ宇宙船に「ガスモバイル (Gusmobile, ガスの自動車の意)」とあだ名をつけていた[8]。死後の1968年に出版された自著「ジェミニ!」によれば、グリソムが来たるべきジェミニ計画に心血を注いだのは、マーキュリー計画が終りに近づき、同計画で自身が再び搭乗できる可能性がなくなったことに気づいたからであった。

ジェミニ計画を管理していたのはテキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センターで、同所はまたワシントンD.C.に本部を持つNASAの有人宇宙飛行局の指示を受けていた。計画の代行取締役は、NASAの有人宇宙飛行の準監督者ジョージ・ミューラー (George E. Mueller) 博士が務めていた。有人宇宙飛行の任務遂行本部の副指揮官であるウィリアム・シュナイダー (William C. Schneider) は、ジェミニ6号の開始からすべての飛行の指揮官を担当した。

マクドネル社の技術者ギュンター・ウェント(Guenter Wendt) はマーキュリーとジェミニの両方で発射準備を監督し、アポロで飛行士を打ち上げる際にも同じ任務を担当することになっていた。彼のチームは発射直前に発射台周辺を封鎖する作業も担当した。飛行士が宇宙船のハッチを閉じる前に見る最後の人間は、ウェントであった。飛行士らは、宇宙船のコンディションについて彼が絶対的な権限を持ち、すべての責任を持つことを望み、また彼と気さくで良好な人間関係を築いた[9]
宇宙船ジェミニ宇宙船の解剖図

1961年、NASAは宇宙船製造の元請企業に、マーキュリー宇宙船の元請だったマクドネル・エアクラフト社を指名した。第一号機は1963年に納入された。全長は5.61メートル、直径は3メートルで、重量は3,200キログラムから3,790キログラムまでと飛行によって異なった[10]

ジェミニの司令船 (帰還区画とも呼ばれる) は、基本的にはマーキュリー宇宙船の拡大版であった。マーキュリーと違い、逆噴射ロケット、電源、推進装置、酸素、水などは司令船の後部に取りつけられている接続区画に搭載されていた。ジェミニにおける設計の主な改良点は宇宙船のすべての内部システムを機器区画に搭載したことで、これによりすでに試験された機器を取り去ったり妨げたりすることなく、独立して検査できるようになったことであった。
帰還区画

船内の機器の多くは、点検用のドアを開ければ手が届くところに配置されていた。マーキュリーと違いジェミニは回路に真空管を一切使用せず、すべて半導体素子を用いていた。またそのモジュール (区画) は、非常に修理しやすくなるよう設計されていた[11]

脱出装置には、マーキュリーのような固体燃料ロケットで射出する塔型の緊急脱出用ロケットは使用せず、代わりに航空機などで採用されている射出座席を用いていた。塔型の装置は重く構造が複雑であり、またタイタンIIの自然発火性の推進剤は接触すればただちに燃焼してしまうため、NASAの技術者は塔は不必要であると推測した。アトラスサターンのような極低温の燃料を使用するロケットに比較すると、タイタンIIは爆発した際の爆風の影響は小さく、故障したロケットから飛行士を退避させるには射出座席で十分だった。射出座席が使用できない高高度では宇宙船そのものを切り離し、飛行士は船内にとどまったまま脱出することになっていた[11]

射出座席使用の主な支持者は、NASAのスペース・タスク・グループ技術部長のシャンベルリンだった。彼はマーキュリーの脱出塔をずっと好まず、重量を削減できるもっと簡素な代替策を用いることを望んでいた。シャンベルリンはアトラスやタイタンIIミサイルの発射が失敗した際のさまざまな映像を検証し、機体の爆発で発生する火球のおおよその大きさを計測した。その結果、タイタンIIの爆発で生じる火球は十分に小さいため、宇宙船からの脱出は射出座席だけで十分であると判断した。

一方でマーキュリーの脱出装置の設計者だったマキシム・ファジェット (Maxime Faget) は、この装置には決して乗り気ではなかった。射出座席は飛行士に深刻な損傷を負わせる可能性がある上に、ロケットが音速を超えると脱出不可能になってしまうため、座席を使用できる時間は発射後40秒以内に限られていた。彼はまた、ロケットが上昇している最中に機外に放出されると、飛行士が排気ガスの中に巻き込まれてしまうことを懸念し、「最もよいのは、脱出装置を使うような事態に陥らせないようにすることだ」と述べた。

ジェミニは飛行操縦の管理と制御を容易にするためのコンピューターを搭載した、初の有人宇宙船だった。またマーキュリーにはなかった、通常の航空機で使用されているようなフライトレーダー姿勢指示器も採用していた[12]エドワーズ空軍基地で行われた、パラグライダーを使用しての飛行試験。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:115 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef