ジェフ・バグウェル
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ジェフ・バグウェル
Jeff Bagwell
2009年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地マサチューセッツ州ボストン
生年月日 (1968-05-17) 1968年5月17日(56歳)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1989年 MLBドラフト4巡目
初出場1991年4月8日
最終出場2005年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


ゼイビア高等学校(英語版)

ハートフォード大学

ヒューストン・アストロズ(1991 - 2005)

コーチ歴


ヒューストン・アストロズ(2010)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2017年
得票率86.2%
選出方法BBWAA選出
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ジェフリー・ロバート・バグウェル(Jeffrey Robert Bagwell, 1968年5月27日 - )は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン出身の元プロ野球選手一塁手)。右投右打。愛称は「バギー」(Baggy)。
経歴

1989年MLBドラフト4巡目(全体110位)でボストン・レッドソックスから指名され、プロ入り。

1990年はAA級ニューブリテン・レッドソックスで打率.333・出塁率.422を記録するが、8月31日ラリー・アンダーセンとのトレードで、ヒューストン・アストロズへ移籍した[1]ボストン出身だけあって家族全員がレッドソックスファンであり、自身もカール・ヤストレムスキーの大ファンだった。それだけに、このトレードには非常に衝撃を受けたと後に語っている[2]。レッドソックスファンの間では、このトレードはベーブ・ルース放出以来の悲劇とも言われた[3][4]。トレード時点ではレッドソックスでは三塁手にウェイド・ボッグスがおり、後継者としてスコット・クーパーやティム・ネアリング(英語版)に加えて一塁手でもモー・ボーンがプロスペクトとして控えていたため意義のあるトレードと考えていたと当時のGMは述懐しているが、獲得したアンダーセンはシーズン終了後にレッドソックスを去り、クーパーとネアリングは1997年を最後にメジャーリーグから姿を消してしまった。

1991年は開幕メジャー入りを果たし、4月8日シンシナティ・レッズ戦でメジャーデビュー。元は三塁手だったが、三塁にはケン・カミニティがいたため一塁手にコンバートされる[2]。レギュラーを獲得し、打率.294、15本塁打、82打点を記録。球団史上初のルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[2]

1992年は5月終了時点で打率.230と低迷したが、その後復調。全試合に出場して打率.273、18本塁打、96打点を記録した[5]

1993年は5月に打率.412を記録し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスを初受賞。9月12日フィラデルフィア・フィリーズ戦で左手に死球を受けて骨折し、以後は欠場するものの打率.320、20本塁打、88打点の好成績を挙げた。

1994年6月24日ロサンゼルス・ドジャース戦で、6回の1イニング2本塁打を含む3打席連続本塁打を記録[6]。6月は打率.394・13本塁打、7月は打率.409、11本塁打でプレイヤー・オブ・ザ・マンスを2ヶ月連続で受賞するなど前半戦で打率.348、27本塁打、82打点を記録し、オールスターゲームに初選出される。8月10日サンディエゴ・パドレス戦で再び左手に死球を受けて骨折。2日後に1994年から1995年のMLBストライキに突入し、そのままシーズンが打ち切られた。共に球団新記録でリーグ2位の打率.368、39本塁打、いずれもリーグトップの116打点・104得点・長打率.750・OPS1.201を記録し、最多打点のタイトルを獲得。MVPをリーグ4人目となる満票で受賞し[7][2]シルバースラッガー賞ゴールドグラブ賞も初受賞した。

1995年5月28日アトランタ・ブレーブス戦で8回に本塁打を放ち、グレッグ・マダックスノーヒッターを阻止[8]。前年の活躍から一転して5月終了時点で打率が.200を切る不振に陥る。7月30日、前年と同じパドレス戦でまたも左手に死球を受けて3年連続で骨折し、1ヶ月の離脱。打率.290、21本塁打、87打点の成績だった。この頃からチームメイトのクレイグ・ビジオデレク・ベルと共に「キラーB's」(殺人蜂の意、3人のイニシャルがBなことに由来する)と呼ばれた。この呼び名は、後にベルが退団後もランス・バークマンカルロス・ベルトランを擁して受け継がれた。

1996年は5月に打率.360、10本塁打、31打点を記録し、4度目のプレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞。全試合に出場して打率.315、31本塁打、120打点、リーグトップの48二塁打を記録した。

1997年は打率.286、共にリーグ2位の43本塁打、135打点、31盗塁を記録し球団史上初、一塁手としては1987年ジョー・カーター以来2人目の30本塁打・30盗塁を達成[2]。チームの11年ぶり地区優勝の原動力となる。ブレーブスとのディビジョンシリーズでは12打数1安打と全く振るわず、チームは3連敗で敗退した。MVPの投票ではラリー・ウォーカーマイク・ピアッツァに次ぐ3位だった[9]

1998年は序盤は低調も徐々に持ち直し、打率.304、34本塁打、111打点を記録し、チームは地区連覇。パドレスとのディビジョンシリーズでは第2戦で3打点を挙げるが打率.143に終わり、チームは1勝3敗で敗退。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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