ジェフ・ケント
Jeff Kentサンフランシスコ・ジャイアンツでの現役時代
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州ロサンゼルス郡ベルフラワー
生年月日 (1968-03-07) 1968年3月7日(56歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手
プロ入り1989年 MLBドラフト20巡目
初出場1992年4月12日
最終出場2008年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
エディソン高等学校
ジェフリー・フランクリン・ケント(Jeffery Franklin Kent, 1968年3月7日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ベルフラワー出身の元プロ野球選手(二塁手)。右投右打。
1997年 - 2002年まで6年連続、2004年 - 2005年まで2年連続で20本塁打・100打点以上を記録している。サンフランシスコ・ジャイアンツ時代には、メジャー屈指の強打者である3番バリー・ボンズの擁護役として4番に座り、2000年にMVPを獲得した。
キャリアのほとんどが二塁手としての出場だが、内野すべての経験がある。 1989年のMLBドラフト20巡目(全体523位)でトロント・ブルージェイズから指名され、プロ入り。 1992年4月12日にメジャーデビューを果たした。 1992年8月27日にデビッド・コーンとのトレードで、ライアン・トンプソンと共にニューヨーク・メッツへ移籍してレギュラーに定着。この年、102試合に出場して11本塁打は新人選手全体で3位で、50打点は2位であった[1]。 1993年は二塁手としてリーグ最多となる21本塁打(クレイグ・ビジオとタイ)・80打点を記録[2]。また1990年にグレッグ・ジェフリーズの15本塁打・68打点を上回る二塁手としての球団記録となった[2]。 1996年11月にマット・ウィリアムズとのトレードで、前述のビスカイーノ、フリアン・タバレスと共にサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍した。 1997年は4月30日、5月13日、5月20日に球団タイ記録となる計3本の満塁本塁打を記録した。7月22日には通算100本塁打を達成した[3]。最終的に自己最多の155試合に出場し、打率は.250と前年を下回ったが、29本塁打・121打点・38二塁打と自己ベストの数字を残した。 1998年は6月10日から7月9日にかけて故障者リスト入りとなり、その間24試合欠場したが、8月には打率.355・11本塁打を記録し、初のプレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞。そして8月は32打点、9月は31打点で2か月連続でリーグ最多打点を記録している[4]。前年を上回る31本塁打・128打点を記録し、打率は前年より4分7厘上昇した。打数を打点で割った値は4.1でマーク・マグワイア(3.5)、サミー・ソーサ(4.1)に次ぐリーグ3位にランクした[4]。 1999年5月3日にはサイクル安打を達成した。また。自身初となるオールスターゲームに選出された。 2002年は自己最多の37本塁打を放ち、打率.313・108打点の成績を残し、ジャイアンツ移籍後6年連続で100打点を達成した。これは球団史上5人目でウィリー・メイズ(1959年 - 1966年)以来の快挙となった[5]。チームはワイルドカードでワールドシリーズへ進出。ケントは第5戦で2本塁打を記録するなどワールドシリーズで計3本塁打を記録するもチームは第7戦で敗退。オフにFAとなった。 2003年から2年総額1,990万ドルの契約でヒューストン・アストロズへ移籍[6]。 同年は23本塁打を放ち、クレイグ・ビジオ(この時、ケントの加入でビジオは中堅手へとコンバートされている)の持つ二塁手としての球団記録22本塁打を更新した。しかし93打点で連続100打点が6年で、39二塁打で連続40二塁打が4年で途切れた[7]。 2004年は5月14日から6月11日にかけて球団新記録となる25試合連続安打を達成した。10月2日のコロラド・ロッキーズ戦ではシーズン26・27本塁打を放ち、ライン・サンドバーグの277本塁打を上回り、二塁手としての最多本塁打記録を更新した[8]。最終的に107打点を記録し、2年ぶり7回目となる100打点を達成した。 2004年12月14日に3年総額2,100万ドルでロサンゼルス・ドジャースにへ移籍[6]。
経歴
プロ入りとブルージェイズ時代
メッツ時代
インディアンス時代(英語版
ジャイアンツ時代
アストロズ時代
ドジャース時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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