ジェニー・リンド
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ジェニー・リンド
Jenny Lind
1850年 ニューヨークにて 銀板写真
基本情報
出生名ヨハンナ・マリア・リンド
生誕1820年10月6日
 スウェーデンストックホルム
死没 (1887-11-02) 1887年11月2日(67歳没)
イングランドヘレフォードシャー
ジャンルクラシック音楽
職業ソプラノ歌手
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ヨハンナ・マリア・リンド(Johanna Maria Lind, 1820年10月6日 - 1887年11月2日)は、スウェーデンオペラ歌手。ジェニー・リンドとしてよく知られており、しばしば「スウェーデンのナイチンゲール」と称された。19世紀において最も注目を集めた歌手の一人であり、スウェーデンやヨーロッパ中でソプラノの役を演じていた。1840年からはスウェーデン王立音楽アカデミーの会員であった。彼女の極めて大きな人気を博したアメリカツアー(en)は1850年に始まった。

リンドは1838年の「魔弾の射手」のスウェーデン公演後に有名になった。数年のうちに声の障害に苦しむようになるが、歌唱の指導者だったマヌエル・ガルシア[注 1]が彼女の声を救った。彼女は1840年代にはスウェーデンと北ヨーロッパ中で非常に多くのオペラの役を演じ、メンデルスゾーンの弟子になっている。ロンドンでの熱狂を巻き起こした2回のシーズンを最後に、29歳の彼女はオペラからの引退を表明する。

1850年、興行師P・T・バーナムの招きに応じてリンドは渡米する。彼女はバーナムの興行で93回の大規模な演奏会に出演し、その後は自らの運営でツアーを継続した。彼女はこれらの演奏会を通じて350,000ドル以上を手にしており、それを慈善事業の推進、主にスウェーデンのフリースクールの基金へと寄付した。彼女は1852年に新しく夫となったオットー・ゴルトシュミットと共にヨーロッパへ戻り、1855年にイングランドに住まいを設けた。続く20年の間には3人の子どもを儲け、時おり演奏会を開いて過ごした。1882年からの数年、彼女はロンドンの王立音楽大学で声楽科の教授を務めた。
人生とキャリア
幼少期夢遊病の女」のアミーナに扮したリンド

リンドはストックホルム中心部のクララ地区[注 2]において、簿記職のニクラス・ジョナス・リンド(Niclas Jonas Lind 1798年 - 1858年)と教師のアンネ=マリー・フェルボルグ(Anne-Marie Fellborg 1793年 - 1856年)の間の婚外子として生まれた[1]。リンドの母は一人目の夫の不倫により離婚していたが、宗教上の理由から1834年の彼の死まで再婚を拒んでいた。リンドの両親は彼女が14歳の時に結婚している[1]

リンドの母は家の外で全日制の女子校を経営していた。リンドが9歳の時、彼女の歌声がスウェーデン王立歌劇場で筆頭の舞踏家であったルンドベルグ婦人(Lundberg)のメイドの耳に入る[1]。そのメイドはリンドの素晴らしい声に驚き、翌日ルンドベルグ婦人を伴って再び現れた。婦人はオーディションを設けてリンドが王立劇場[注 3]の演劇学校[注 4]に入れるよう便宜を図った。演劇学校では、劇場の歌唱指導者であったカール・マグヌス・クレリウス(Karl Magnus Craelius)がリンドの指導に当たった[2]

リンドは10歳の時に舞台で歌うようになる。彼女は12歳の頃、声の危機に直面してしばらく歌唱を止めなくてはならなかったが、そこから回復した[2]。彼女が演じた最初の大役は1838年のスウェーデン王立歌劇場でのウェーバーの「魔弾の射手」の公演におけるアガーテ役だった[1]。彼女は20歳でスウェーデン王立音楽アカデミーの会員となり、スウェーデンとノルウェイの王の宮廷歌手[注 5]となった。


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