ジェシカ・ミットフォード
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オナラブル
ジェシカ・ミットフォード
ウィリアム・アクトンによる肖像画(1937年)
生誕ジェシカ・ルーシー・フリーマン=ミットフォード
(1917-09-11) 1917年9月11日
イングランドグロスターシャー
死没1996年7月22日(1996-07-22)(78歳)
アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド
国籍イギリス
市民権イギリス
アメリカ合衆国 (移住・1944年取得)
職業ジャーナリスト
著名な実績ミットフォード姉妹共産主義者、『令嬢ジェシカの反逆』及び『アメリカ式死に方』の著者
配偶者エズモンド・ロミリー
ロバート・トルーハフト
子供4
デイヴィッド・フリーマン=ミットフォード (第2代リーズデイル男爵)
シドニー・ボウルズ
家族ミットフォード
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ジェシカ・ルーシー・フリーマン=ミットフォード(英語: Jessica Lucy Freeman-Mitford、1917年9月11日 - 1996年7月22日)、通称ジェシカ・ミットフォード(英語: Jessica Mitford)、愛称「デッカ」(英語: "Decca")はイングランド出身の作家、ジャーナリスト公民権運動家、政治活動家であり、ミットフォード姉妹の一員である。
生涯
生い立ち

ミットフォードにあるアストホール・マナーにて、ミットフォード家の7人きょうだいの第6子として生まれた[1]。父は第2代リーズデイル男爵デイヴィッド・フリーマン=ミットフォードで、母はその妻であり、政治家及び出版者であったトマス・ボウルズの娘であるシドニーであった。父が所有していたいくつかのカントリー・ハウスで育った。公的な教育はほとんど受けていなかったが、非常に教養があった。姉のユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードダイアナ・ミットフォードイギリスにおけるアドルフ・ヒトラーの支持者として有名であり、父デイヴィッドは「生来ファシスト的」だったということであるが、ジェシカ(家族からはいつもデッカと呼ばれていた)は早いうちから恵まれた境遇に反抗し、共産主義を信奉するようになった[2]。家族の中では「赤いヒツジ」だと思われていたという[3]
エズモンド・ロミリーとの結婚

19歳の時、ジェシカははとこのエズモンド・ロミリーと出会った。エズモンドはスペイン内戦国際旅団に参加してマドリードを防衛していた際にかかった赤痢から回復しつつあるところであった。ロミリーはウィンストン・チャーチルの義理の甥にあたる。はとこ同士はたちまち恋に落ちでスペインに駆け落ちすることに決め、ロミリーはスペインで『ニューズ・クロニクル』の記者として働くことになった。親戚からの反対により法的な問題が起こったが、結局2人は正式に結婚した。ロンドンに引っ越してイーストエンドに住むようになったが、その当時この地域は貧しい工業地域であった。ジェシカは1937年12月20日に娘のジュリア・デッカ・ロミリーを自宅出産した。赤ん坊は翌年5月にはしかの流行で亡くなった。後年、ジェシカはめったにジュリアのことを口にせず、1960年に刊行した自伝『令嬢ジェシカの反逆』(Hons and Rebels)でもジュリアを名前で呼んでいない[2]

1939年に、エズモンドとジェシカはアメリカ合衆国に移住した。さまざまな仕事をし、常に金銭的に困窮した状態ながらも全国を旅した[2]第二次世界大戦が始まると、エズモンドはカナダ空軍に入隊した。ジェシカはヴァージニア・フォスター・ダーやクリフォード・ダーなどと親しくしながらワシントンD.C.に住んでおり、エズモンドがイングランドに派遣された後は夫と一緒に住むことを考えるようになった。1941年2月9日、ワシントンD.C.でジェシカは2番目の娘、コンスタンシア・ロミリー(「ドンク」や「ディンキー」と呼ばれていた)を出産した[4]。夫エズモンドは1941年11月30日、ナチス・ドイツに対する爆撃から帰還する途中で作戦行動中行方不明となった。
ロバート・トルーハフトとの結婚

ジェシカは戦争のための仕事につくことにした。この中でアメリカ人の公民権弁護士ロバート・トルーハフトと出会い、1943年に結婚して、カリフォルニア州オークランドに落ち着くこととなった。1944年にアメリカの市民権を取得した[5]

オークランドで夫妻には2人の息子が生まれた。ニコラスが1944年に生まれたが、1955年にバスに轢かれて亡くなった。ベンジャミンが1947年に生まれた[1]。ジェシカは「優しくほったらかしておく」精神で子育てを行い、子供たちは母が「ありのまま」で「気を遣わない」様子だったと述べている[6]。ジェシカは何十年も自分の母と親しく文通を続けていたが、生涯にわたって姉のダイアナとは疎遠だった。
仕事と政治活動
共産主義と左翼政治活動

ジェシカは1950年代初頭の間ずっと、地元の公民権会議支部事務総長をつとめていた。この活動と夫の法曹活動を通して、ジェシカは多数の公民権キャンペーンに携わった。有名なものとしては、白人女性に対する強姦で有罪となっていたアフリカ系アメリカ人ウィリー・マッギーの処刑を止めようとする試みがあるが、これは成功しなかった[7]。ジェシカと夫のロバートは共産党の活動的なメンバーだった。1953年にマッカーシズムと「赤狩り」が最高潮に達していた際、ふたりは下院非米活動委員会に召還された。ふたりとも自らが過激派グループに参加していたかについての証言を拒否した[8]

1956年にジェシカはステンシルで刷ったパンフレット"Lifeitselfmanship or How to Become a Precisely-Because Man"を刊行した。姉ナンシーが共著者として参加し、イギリス英語における階級差について編纂した著書Noblesse Obligeは「Uと非U」な英語、つまり上流階級(upper class)と非上流階級(non-upper class)という言葉を広めたが、ジェシカはそれに応えてLと非L、つまり左翼(Left)と非左翼(non-Left)な英語について書き、前面階級闘争において同志が使うクリシェを諷刺した[9][10] 。本作のタイトルはスティーヴン・ポッターによる諷刺的な作品シリーズのもじりで、このシリーズの中にはLifemanshipという著作もあった。

現在の政治的状況を鑑みると党の外でも社会正義のためにもっと活動ができると考え、ソビエト連邦での共産主義の展開に幻滅したジェシカとロバートは、1958年末に党をやめた[11]


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