ジェイ・ケイ
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この項目では、シンガーソングライターについて説明しています。JKについては「JK」をご覧ください。

ジェイ・ケイ
Jay Kay
2007年、ガムボール3000にて.
基本情報
生誕 (1969-12-30) 1969年12月30日(54歳)
出身地 イングランド ブラックバーン
ジャンルアシッドジャズファンクディスコブルー・アイド・ソウルエレクトロニカ
職業ミュージシャン
担当楽器ボーカル
活動期間1992 - 現在
著名な家族カレン・ケイ(母)
共同作業者Jamiroquai

ジェイ・ケイ(出生名: Jason Luis Cheetham、1969年12月30日 4:00am - )はイギリスのシンガーソングライター。ジャミロクワイを率いて同バンドでの活動でグラミー賞を受賞しており、楽曲「ヴァーチャル・インサニティ」の成功が有名。20世紀最後の大物と言われた。
経歴
1969年 - 1984年 (幼少期)

イングランド北西部のブラックバーン[1]一卵性双生児として生まれるが、兄デイヴィッドはへその緒が首に絡まって生まれた事による脳障害によって6週間で亡くなってしまった[2](この兄は、彼の初期の歌詞に頻繁に登場する)。

カレン・ケイ(芸名)はジャズシンガーである。イギリス各地の劇場で歌ったり、BBCの深夜帯で自分の番組を持って既存のヒット曲スタンダードナンバーをショー形式で歌ったり、さらにクイズ番組の回答者をするなど、テレビタレントでもあった。

実父ルイス・サライヴァはポルトガル人のギタリストであるが、両親が一緒に暮らすことはなかったため、ケイは33歳になるまで父親と面識はなかった[3][4]

母はケイを連れて劇場で仕事をしていたため、母の楽屋で過ごしたり、舞台裏を見たり、他のプロの歌手やダンサーがステージをこなす姿も見て育った[5]。ごくたまに母がステージにケイを上げてくれる事もあり、一番小さい頃の記憶は赤ちゃんくらいの頃の事で、母の腕に抱かれながらたくさんの観客の前に出た光景を覚えているとのこと。幼児期に母の仕事場やライブツアーに付き添ったことによりステージセンスや音楽的素養が培われた。

幼少期に母がマービン・ケイという人物と一時期結婚していたため苗字がケイとなり、その時期は母と義父と共にマンチェスターに居住していた[6]。メディアではマービンを「父」と呼ぶ事もあり[7]、父はスピードの速い車が好きな人物だったそう[8]。その後はラトランドのオークハム中学に通った[4]。他にもサフォークデヴォンで幼少期を過ごす[9]。13歳の頃は母と母のマネージャーをしていたジェームス・ロイヤルと共に半年間タイに居住し、その後は一時期レスターシャーの寄宿学校に在学していた[3]
1984年 - 1986年 (イーリング時代前半)

14歳頃ロンドン郊外のイーリングに引っ越し[9][10]アクトンにあるトワイフォード・チャーチ・オブ・イングランド高校(英語版)に通うが[9]、15歳で母親と喧嘩して家出してホームレスをする[11]。生きていくために少々の軽犯罪を犯しながらホームレス生活をしていたが、ある日襲われて刺され、この時誤って逮捕されたが無実と分かり後に取り消され、退院後は母親の所に戻った[11]

15歳頃、住宅の上の階にドラムマシンキーボードなどを持っているペルシャ系のアレムと言う友達ができ二人でギグにハマる[12][10][9]。アレムはレコードや音響機器もいろいろ持っており、この頃よく一緒にデクスター・ワンセルの音楽を聴き、特にアルバム「What the world is coming to」は15歳のケイに非常に大きな音楽的影響を及ぼした[13]。アレムとは成功後も交流があり、一緒にジャズバーに行ったり自宅音楽スタジオ(後述「不動産」参照)に遊びにきたこともある[14]

10代の頃は自宅付近の人通りの少ない小道で一人で歌の練習もしていた[10]スケートボードにもハマり、遊びでも移動手段としも毎日乗っていた[10]。2001年の楽曲「ユー・ギヴ・ミー・サムシング」のミュージックビデオではスケートボードで360度スピンやチック・タックを披露している[15]

人生で初めて行った仕事はモヤシのパック詰めである[16]。その他ピザの配達やヘロイン中毒者がいる化粧品工場で作業員をしたり、電話で意見を聞く市場調査員など様々なアルバイトをしながら生活し、そんな状況からの現実逃避のためにパブで飲む生活をしており[16]、当時のアシッドジャズレア・グルーヴ・シーンの真っ只中のクラブ文化に居場所を見出す。1980年代後半のロンドンではハウスも流行り始めるが、ハウスは好きではなかった[12]

1986年、16歳の時そんな生活から抜け出すために歌うことで生きていこうと決め、作詞作曲をしてアレムと共にデモテープを送り始める[12]。初めて人前でギグを披露したのはイーリングのパブ「The Haven (Haven Green 1番地にあったが現在は存在しない)」である[10]ナイトクラブ「Broadway Boulevard (High Street 11番地にあったが現在は存在しない)」でも披露した[9][10]
1986年 (幻のデビューシングル)

アレムは、同じ地区であるイーリングに事務所を構えるストリート・サウンズ社というレコード会社に知り合いがいたため売り込む事ができ、ケイが作詞作曲した楽曲「Natural Energy」が創業者のモーガン・カーンの耳に留まり発売される事になった[17]。歌で生きていこうと決めてからわずか6週間後の事だった[18]。レコーディングをし(スタジオはSpringbridge mews 9番地だったが現在は移転)、3枚だけホワイト・レーベル(サンプルのレコード盤)が作成され、バッファローマンのロゴを自分でラベル紙に描き(ジャミロクワイの「バンドロゴ」参照)、自分の声がレコードになっている事にとても興奮した。しかし3週間後に事務所に行ってみると社員が荷造りをしており、社長のモーガンがスウェーデンに引っ越したので事務所は閉めると言われデビュー話も立ち消えになってしまった[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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