ジェイ・グールド
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この項目では、アメリカの資本家について記述しています。その他の同名の人物については「ジェイ・グールド (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「暗黒の金曜日」はこの項目へ転送されています。暗黒の木曜日の次の段階については「ウォール街大暴落 (1929年)」をご覧ください。

ジェイ・グールド
ジェイ・グールド
生誕1836年5月27日
ニューヨーク州ロクスベリー(英語版)
死没1892年12月2日
ニューヨーク州ニューヨークマンハッタン
職業資本家
配偶者ヘレン・デイ・ミラー(1838年-1889年)
子供ジョージ・ジェイ・グールド1世
エドウィン・グールド1世
ヘレン・ミラー・グールド
ハワード・グールド
アンナ・グールド
フランク・ジェイ・グールド
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ジェイソン・"ジェイ"・グールド(: Jason "Jay" Gould、1836年5月27日-1892年12月2日)は、アメリカ合衆国資本家であり、アメリカの指導的鉄道開発家、また投機家でもあった。長い間典型的な泥棒男爵(悪徳資本家)と誹られてきた。ウエスタンユニオン電信会社を支配したような、建設投資が再評価されている。
生い立ちと初期の経歴

グールドはニューヨーク州ロクスベリーで、ジョン・バー・グールド(1792年-1866年)とメアリー・ムーア・グールド(1798年-1841年)夫妻の息子として生まれた。父はイギリス人の血を引いており、母はスコットランド人の子孫だった。

グールドはホバート・アカデミーで学んだが、16歳の時に退学し、父の金物商の手伝いを始めた。その後も独学で勉強を続け、測量や数学に強くなった。後にはニューヨーク州西部で製材業や革なめし業で働き、さらにはペンシルベニア州モンロー郡ストラウズバーグ(英語版)で銀行業に関わるようになった。
結婚1855年のジェイ・グールド

グールドは1863年にヘレン・デイ・ミラー(1838年 - 1889年)と結婚し、次の6人の子供が生まれた。

ジョージ・ジェイ・グールド1世(1864年 - 1923年)、エディス・M・キングドン(1864年-1921年)と結婚[1]

エドウィン・グールド1世(1866年 - 1933年)、サラ・キャンティーン・シュラディと結婚[2]

ヘレン・ミラー・グールド(1868年 - 1938年)、フィンリー・ジョンソン・シェパード(1867年 - 1942年)と結婚[3]

ハワード・グールド(1871年 - 1959年)、ヴィオラ・キャサリン・クレモンスと1898年10月12日に結婚。その後1937年女優グレテ・モスハイムと再婚[4]

アンナ・グールド(1875年 - 1961年)、カステラン伯ポール・アーネスト・ボニフェイス(1867年-1932年)と結婚。離婚後、第5代タレイラン公爵、第5代ディ公爵、第4代サガン公爵にしてサガン侯爵のエリー・ド・タレイラン=ペリゴール(1858年 - 1937年)と再婚[5]

フランク・ジェイ・グールド(1877年 - 1956年)、ヘレン・ケリーと結婚、エディス・ケリーと再婚、さらにフロレンス・ラ・ケイズ(1895年-1983年)と再婚[6]

ツイードの環

グールドとジェイムズ・フィスク(資本家)(英語版)がタマニーホールに関わるようになったのは同じ時期だった。彼等はタマニーの領袖だったウィリアム・M・トウィード(ボス・トウィード)をエリー鉄道の社長にし、トウィードはその見返りに彼等に有利な法律を手配した。トウィードとグールドは1869年にトマス・ナストの政治風刺漫画の題材にされた。1871年10月、トウィードが100万ドルの保釈金を積んだとき、グールドが主保証人になった。
暗黒の金曜日

1869年8月、グールドとフィスクは、金価格の上昇が西部の農夫の売りたい小麦価格を上昇させ、東部のパン原料輸送料を増やし、エリー鉄道の荷受量増加に繋がることを期待して、市場買い占めのために金を買い始めた。この期間、グールドはユリシーズ・グラント大統領の義弟アベル・コービンとの接触を利用して、大統領とその国務長官ホレス・ポーターへの影響力行使を図った。この金投機が1869年9月24日の暗黒の金曜日と言われる恐慌まで登り詰め、20ドル金貨表面価格に対する割増率は62%から35%まで下がった。グールドはこの操作で名目利益を得たが、その後の訴訟でそれを失った。

この金買い占めで、市場を意のままに上下させることができる全能の人間として新聞界におけるグールドの評判ができた。グールドの残りの人生で、新聞記者が他では説明できない市場展開の大半をグールドのせいにすることになった。
ゴードン=ゴードン卿

1873年、グールドは、移民用の土地を物色していたキャンベル氏族の従兄弟、ゴードン=ゴードン卿からの海外投資を得ることでエリー鉄道を支配しようとした。グールドはゴードン=ゴードンに株式で10万ドルの賄賂を贈った。しかし、ゴードン=ゴードンは詐欺師であり、直ぐにその株を現金に換えた。グールドはゴードン=ゴードンを告発し、その裁判は1873年3月に行われた。ゴードン=ゴードンは法廷でヨーロッパの有力者の名前を出して召還を請求し、その照会が行われる間に保釈を認められた。ゴードン=ゴードンはこの機会を利用してカナダに逃亡し、そこで当局を彼に対する告発は嘘だと説得した[7][8]

グールドは、カナダ当局にゴードン=ゴードン引き渡しを要求して失敗した後、後にミネソタ州知事になった者2人と、合衆国下院議員になった者3人を含む仲間達と、ゴードン=ゴードンの誘拐を試みた。この集団は成功したが、アメリカ合衆国に戻る前に王立カナダ騎馬警察に止められ逮捕された。誘拐実行者達は監獄に入れられ、保釈も拒否された[7][8]。これがアメリカとカナダの間の国際問題になった。誘拐実行者達が保釈されないことを知ったミネソタ州知事ホレス・オースティンはその帰還を要求し、州兵に即応体制を取らせた。多くのミネソタ州人が全軍でのカナダ侵攻を志願した。しかし、交渉によってカナダ当局は誘拐実行者達を保釈で解放した[7][8]

この出来事全体のために、グールドはエリー鉄道支配の可能性を失った。
鉄道と電信ジェイ・グールドのプルマン会社の客車 "Atalanta"
現在はテキサス州ジェファーソンで保管。プルマン社の株式はジョージ・ピーボディが保有し、多くの財産を築いた。

1879年、グールドはユニオン・パシフィック鉄道やミズーリ・パシフィック鉄道を含み西部の鉄道4社を支配した。彼はこうして中西部の鉄道システムを作り上げることを始めた。同1879年、インターナショナル・オーシャン電信会社(International Ocean Telegraph Company)の支配権を掌握した[9]1880年には1万マイル (16,000 km) の鉄道を支配し、これは当時のアメリカ合衆国全体の鉄道路線のほぼ9分の1となり、グールドは1882年までにその15%を支配するようになった。1881年以降はニューヨーク市の高架鉄道も手に入れた。グールドは1833年に連邦政府に対する負債で政治的論争の渦中にあったユニオン・パシフィックの管理から撤退し、それで大きな利潤を得た。

グールドはまたウエスタンユニオン電信会社を支配するようになった。そして、ウェスタンユニオンのために@最初に取得したインターナショナル・オーシャン電信会社を99年の期限付きで借り受け、Aアメリカン・ユニオン電信会社(英語版)と、同社を通してそのカナダの持株会社を取得できるよう取り計らった。すなわち、ウェスタンユニオンのシステムは、物理的に大西洋横断電信ケーブルと結合され、さらに金融的にもカナダの通信システムと結合された。1883年12月12日、コマーシャル・ケーブル会社(Commercial Cable Company)が創設され、グールドによる電信・ケーブル敷設の独占を打ち破った。[9]

1868年から1888年の期間に、グールドは合衆国最大の鉄道財務運営会社の多くに関係を持った。1886年サウスウェスト鉄道大ストライキの間にはスト破りを雇った。労働組合活動家に拠れば、当時グールドは「私なら労働階級の半分を雇って残り半分を殺すこともできる」と言ったと言われている。
死と遺産ウッドローン墓地にあるグールド廟


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