ジェイムズ・マクファーソン
誕生1736年10月27日
ハイランド、インヴァネス州
死没 (1796-02-17) 1796年2月17日(59歳没)
ハイランド、インヴァネス州
職業詩人、政治家
国籍 スコットランド
文学活動ロマン主義
代表作オシアン詩集(翻訳)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
ジェイムズ・マクファーソン (英語: James Macpherson, Seumas Mac a' Phearsain 1736年10月27日 - 1796年2月17日)は、スコットランドの作家、詩人、文芸収集家、政治家。ケルト文学を広く世に紹介した先駆けだが、現代では偽書捏造者の誹りも受ける。 マクファーソンは、古代の盲目の詩人オシアン(オシァン)が詩作したハイランド地方を物語の舞台とするスコットランド・ゲール語の長編叙事詩(epic) を発見したと称し、その「翻訳」だとする英語の散文作品を、『フィンガル』(1762年)、『テモラ』(1763年)などの題名で、段階的に発表した。 これは当時、ヨーロッパ大陸の文壇で一世を風靡し、若かりき日々のドイツのロマン派作家たちに少なからず影響を及ぼした。一方で、発表まもなく、これら作品は、正真正銘の古歌ではない、マクファーソンがでっちあげたものだという批判がわきあがった。いわゆる「オシァン関係論争 (Ossianic Controversy)」である。 現在では、いわゆる『オシアン詩集』は、言い伝えや古謡などをもとに、あらかたマクファーソンが創作した近代作品とみなされており、そのゲール語詩も、前後して創作された文学とみるのが趨勢である[1][2]。ケルト文学における偽書(en:literary hoax
概要
しかし、純正のケルト文学の古典名作がまだ世に紹介されていない時代、とりあえずのゲール語文学として注目を集め、後のケルト文学の考証伝承や写本の採集・研究を触発したと評価する向きもある[4]。
なお、比較的近年に出た日本語訳(中村徳三郎 1971)では、ゲール語版を真正の古文学とみなして訳出している。 アンドルー・マクファーソン(Andrew Macpherson)とエレン・マクファーソン(Ellen Macpherson)の息子として[5]、ハイランドのインヴァネス州
初期の人生
大学を出るとマクファーソンは生地ルスヴェンで教鞭をとった[要出典]。同い年のトマス・グラハム
(英語版)(参照:ナポレオン -獅子の時代-)の家庭教師を務めていたときのことである。出入りのグラハム家邸(モファット(英語版)の町)で、1759年夏[6](または10月2日[7])、マクファーソンは、悲劇『Douglas』の作者ジョン・ホーム(英語版)との運命的な知遇を得た(牧師出身のホームはこの頃還俗して第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの私設秘書を務めていた。ビュート伯はスコットランド出身で、次期王がこの翌年に即位するとともに英国最大権力者になった人物である)。ホームはかねてより、ゲール語を解する知人アダム・ファーガソンから、ハイランド地方にいけば古歌がいまでも残されている、と聞かされており、以来、なんとかそれを入手できないかと切望していた。その旨の会話をもちかけると、マクファーソンは、自分がそうした作品のいくつかを所持していると答えた。ホームが是非見せてくれ、と願い出ると、マクファーソンは、「では先生はゲール語をご存知か?」と訊ね、「いいや、片言も」と答えると、「ならばどうしてお目にかけようができましょうか?」と言った。そこでホームは強いてその英訳の提出を求めた。そしてマクファーソンから得た「オスカルの死」その他の「訳詩」のサンプルを、エディンバラの知人ヒュー・ブレア博士(英語版)らに回覧した[8]。
これらの公達から、マクファーソンは、所持するゲール語詩のありったけすべてを訳すようにうながされ、それらは1760年にエディンバラで『Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland, and translated from the Gaelic or Erse language(スコットランドのハイランドで収集した古代の詩の断片)』[9](または『古歌の断章』[10])という題名の小冊子として出版された。名目上は「詩」と称しながら、独特のリズムの散文でつづるマクファーソンの作風はここですでに確立されている。