初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン(英語: James Hamilton, 1st Duke of Hamilton、1606年6月19日 - 1649年3月9日)は、スコットランドの貴族、政治家。清教徒革命(イングランド内戦)中、王党派に協力し第二次イングランド内戦(英語版)で議会派のオリバー・クロムウェルに挑んだが、敗れて処刑された。 1606年6月19日、スコットランド貴族第2代ハミルトン侯爵ジェイムズ・ハミルトンとその先妻アン(第7代グレンケーン伯爵
経歴
イングランドのオックスフォード大学エクセター・カレッジで学ぶ[2][3]。
1625年3月2日に父の死によりスコットランド貴族爵位ハミルトン侯爵やイングランド貴族爵位ケンブリッジ伯爵を継承した[2][3]。
初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズ暗殺後の1628年から1644年まで代わって主馬頭(英語版)を務めた[2][3]。1630年10月5日にはガーター勲章勲爵士(KG)に叙せられ、1633年にはイングランドとスコットランド双方で枢密顧問官に列した[3]。三十年戦争に参戦したこともあり、1631年から1634年までの3年間スウェーデン王グスタフ2世アドルフの下で戦った[4]。
国王チャールズ1世がイングランド国教会をスコットランドに押し付けようとしたことが原因でスコットランドで抵抗運動が高まり、1638年2月にはスコットランドの貴族や教区牧師の間で国民盟約が締結された。チャールズ1世は武力弾圧をもくろんだが、戦費がなかったので6月にハミルトン侯を交渉役としてスコットランドに派遣して時間稼ぎを図った[5][6]。帰国後盟約派に譲歩するよう国王の説得にあたったが失敗[2][4]、ハミルトン侯はエディンバラでただ有害な交渉を行ったと他の国王側近たちから疑いをもたれるようになった[7]。