ジェームズ・サーバー
James Thurber
ジェームズ・サーバー(1954年)
誕生James Grover Thurber
(1894-12-08) 1894年12月8日
アメリカ合衆国 オハイオ州コロンバス
死没 (1961-11-02) 1961年11月2日(66歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
墓地 アメリカ合衆国 オハイオ州コロンバス Green Lawn Cemetery
職業作家、漫画家、編集者
国籍 アメリカ合衆国
最終学歴オハイオ州立大学
活動期間1929年 - 1961年
ジャンル短編小説、漫画、エッセイ
主題ユーモア、言語
代表作.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
My Life and Hard Times
ジェームズ・グローバー・サーバー(James Grover Thurber、1894年12月8日 - 1961年11月2日)はアメリカ合衆国の作家、漫画家である。雑誌『ザ・ニューヨーカー』の編集者・執筆者としても活躍した。
ニューヨーカー誌に掲載された"The Catbird Seat"などの漫画や短編小説で有名であり、後に書籍として出版された。普通の人々の欲求不満や奇抜さを描いた漫画で知られており、その時代の最も人気のあるユーモリストの一人だった。彼が大学時代からの友人である映画監督・脚本家のエリオット・ニュージェント(英語版)と共同で書いたブロードウェイコメディ"The Male Animal"は、ヘンリー・フォンダとオリヴィア・デ・ハヴィランドの主演で映画化(邦題『男性(英語版)』)された。彼の短編『ウォルター・ミティの秘密の生活』は、1947年(邦題『虹を掴む男』)と2013年(邦題『LIFE!』)に映画化された。 サーバーは、1894年12月8日にオハイオ州コロンバスで父チャールズ・L・サーバーと母メアリー・アグネス・サーバー(旧姓フィッシャー)の間に生まれた。両親とも、彼の作品に大きな影響を与えた。父は臨時雇の事務員で、弁護士か俳優になることを夢見ていた。母のことをサーバーは、「生まれながらのコメディアン」「私が知る限り最高のコミックの才能」と述べていた。母はあるとき、身体が不自由になったふりをして信仰療法の集会に参加し、跳ね上がって治ったと言った[1]。14歳の時のジェームズ・サーバー サーバーが7歳のとき、兄弟とウィリアム・テルごっこをしていて、誤っておもちゃの矢が左眼に刺さった[2]。これにより左眼を失明し、後に負傷によりほぼ完全に盲目状態となった。このために、子供時代にスポーツやその他の活動に参加することができなかったが、文章で自分を表現するための創造的な心を発達させた[1]。神経科医のヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは、サーバーの想像力がシャルル・ボネ症候群である程度説明できるかもしれないと示唆した。シャルル・ボネ症候群は、低視力になった際に引き起こされる複雑幻視である[3]("The Admiral on the Wheel"という作品はこの症候群が基礎となっている)。高校の卒業写真1915年に撮影された家族写真。左から右に、前列がロバート、チャールズ(父)、後列がウィリアム、ジェームズ、メアリー(母) 1913年から1918年までオハイオ州立大学に通った。このときに借りて一家で住んでいたジェファーソン通り77番の家は、1984年に「サーバー・ハウス」となった。視力が悪いため、必須だった予備役将校訓練課程(RTOC)を受講できず、大学を卒業できなかった[4]。死後の1995年に、大学は学位を授与した[5]。オハイオ州コロンバスのサーバーハウス 1918年から1920年まで、米国国務省の書記官として働いた。最初の勤務地はワシントンD.C.で、後にパリの在仏大使館に移った。
生涯