初代モントローズ公爵ジェイムズ・グラハム(英: James Graham, 1st Duke of Montrose、1682年4月 - 1742年1月7日)は、ステュアート朝末期からハノーヴァー朝初期のスコットランドの貴族。
ハノーヴァー家の王位継承やスコットランド王国とイングランド王国の連合を支持し、アン女王によって「モントローズ公爵」に叙された[1]。1715年ジャコバイト蜂起では鎮圧へ向けて働いた[1]。
出生から父親が死去する1684年までは儀礼称号の「グラハム卿」で、1684年からモントローズ公爵に叙される1707年までは「第4代モントローズ侯爵」と称された。 第3代モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハム
経歴
1702年にモントローズはSheriff of Dumbarton職やダンバートン城の管理権、レノックス(英語版)のRegality権などを初代レノックス公チャールズ・レノックスから購入し、地域への影響力を強めた[2]。
アン女王によって、モントローズは1705年2月23日にスコットランド海軍司令長官(Lord High Admiral of Scotland; 海軍総司令官)[訳語疑問点]に、翌1706年の2月28日にスコットランド枢密院議長(Lord President of the Council of Scotland)[訳語疑問点]に任じられた[3][2]。
モントローズは周囲からの反対にも拘わらず、プロテスタント――すなわちステュアート朝ではなくハノーヴァー朝――によるスコットランド王位継承の強力な支持者であり、スコットランド王国とイングランド王国の合同に対する功績により合同後の1707年4月24日に「モントローズ公爵」に叙された[3][2][4]。
1707年2月13日、最後のスコットランド議会において、モントローズは最初のスコットランドの貴族代表議員16人のうちのひとりに選出され、その後も数度再選された[3][2][4]。
1709年2月28日、モントローズはスコットランド王璽尚書(Keeper of the Privy Seal of Scotland)に任命された。しかし初代オックスフォード=モーティマー伯ロバート・ハーレーのトーリー党政権に反対したため、1713年に解任された[3][2]。
1714年にアン女王が崩じると、モントローズは新国王ジョージ1世によって摂政の一人に任じられた[1][2][4]。また9月24日にはジャコバイト支持を疑われて更迭された第23代マー伯爵ジョン・アースキンの後任のスコットランド大臣として第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドの政権に加わった。
1715年ジャコバイト蜂起が発生したとき、政府にとってモントローズの支持が得られたことは乱を鎮圧するにあたって重要であった[2]。彼はスコットランドの民政を担当し、乱後はスコットランド人の訴えを聞きつつ彼らへの処罰が軽くなるよう努めた[3]。
1716年、モントローズはスコットランド国璽尚書(Keeper of the Great Seal of Scotland)[訳語疑問点]に任命され、1733年に消費税法案(Excise Bill)成立を目指すサー・ロバート・ウォルポールと対立し解任されるまで務めた[3]。