ジェイムズ・オーティス
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ジェイムズ・オーティス
ジョセフ・ブラックバーン画(1755年)
生誕 (1725-02-05) 1725年2月5日
イギリス領北米植民地
マサチューセッツ湾直轄植民地バーンスタブル
死没1783年5月23日(1783-05-23)(58歳)
アメリカ合衆国
マサチューセッツ邦アンドーバー
職業法曹、政治活動家
配偶者ルース・カニンガム
子供ジェイムズ、エリザベス・ブラウン、メアリー・リンカーン
親ジェイムズ・オーティス・シニア、メアリー・アレン
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ジェイムズ・オーティス(James Otis, 1725年2月5日 - 1783年5月23日)は、マサチューセッツ湾直轄植民地法律家政治活動家アメリカの植民地時代末期に当局による強制捜査のあり方を批判して植民地の権利を主張、その論旨は後の独立革命の理念の背景の一つとなった。通例、「代表なき課税は暴政である」というフレーズを初めて使ったとされる[1]

同じく法曹畑の政治活動家である父親と同名であり、その混同を避けるため、当時の史料を含む多くの文献で、本稿の主題である息子に言及するときは「ジェイムズ・オーティス・ジュニア (James Otis, Jr.) 」、父親のほうに言及するときは「ジェイムズ・オーティス・シニア (James Otis, Sr.) 」、または民兵軍での階級(「大佐」)が添えられている。本稿では父親について述べる場合にのみ「父ジェイムズ」として明示する。
生い立ちと家族、初期の経歴

ジェイムズ・オーティスはマサチューセッツバーンスタブルで生まれ、父ジェイムズとその妻メアリーがもうけた13人兄弟姉妹の長子として成長した[2]

父ジェイムズはマサチューセッツの有力者の一人として、司法長官、民訴裁判所判事、遺言検認判事、代表議会議長、民兵軍大佐などを歴任した[3]。兄弟姉妹には、成人前に没したものもいれば、独立革命前後に公の活動を行ったものもいる。中でも、長妹マーシー・オーティス・ウォーレンは詩や戯曲などの著作活動を通じて独立革命を擁護し[4]、末弟サミュエル・アレン・オーティスは初代合衆国上院秘書官(在任1789年 - 1814年)を務めた[5]

ジェイムズ・オーティスは1739年から1743年にかけてハーバード大学に在籍し、卒業後しばらく文学を独習した後、1745年から弁護士ジェレマイア・グリッドリーに学び、1747年にプリマスで弁護士として独立、1750年からはボストンに活動の中心を移した[6]

1755年春、商家の娘ルース・カニンガム(1728年? - 1789年11月15日)と結婚、社会的な地歩を固めた。志操堅固な王党派だったルースは夫と政治的理念を共有することはなかったが、生涯を連れ添った。2人の間には3人の子供が生まれている。長男ジェイムズは独立戦争に志願兵として従軍し、18歳を前に命を落とした。長女エリザベスは、後年オーティスが精神を患った後にイギリスの士官と結婚し、イギリス本国へ去った。次女メアリーは大陸軍将軍ベンジャミン・リンカーンの子と結婚した[7]

1756年頃から治安判事、司法長官代行、海事法務官代行などの任命を受ける一方、1760年にはラテン語に関する著作『ラテン語詩形論の基礎』[8]を出版している。さらにギリシア語についても同様の草稿を書いたが、しかしギリシア文字活字の都合がつかず、未発表となったとされる。この草稿は失われてしまっている[9]。総じて、この時期のオーティスは、文学を愛好する優秀な若手法曹以上の存在ではなく、政治的な物事への関心は薄かった[10]
植民地の論客として
新総督バーナードと新主任判事ハッチンソン

1760年9月、最高裁判所主任判事スティーブン・スーワルが病没した。空席となった主任判事の椅子は父ジェイムズにとって宿望のものであり、前々総督ウィリアム・シャーリーからもその約束を取り付けていたつもりだった[11]

父親の望みを理解していたオーティスは、副総督トマス・ハッチンソンとその周辺に、8月に着任したばかりの新総督フランシス・バーナードへの口ぞえを依頼した。しかしハッチンソンは、義弟アンドリュー・オリバーやオーティスの旧師ジェレマイア・グリッドリーに推される形でバーナードから主任判事への任命を受けた。この間のいきさつは、オーティスと、バーナードおよびハッチンソンの間に埋まることのない溝を穿った[12]。その対立は、はやくも翌年2月の援助令状を巡る論争となって表れることになる。
援助令状

このころマサチューセッツの税務局職員は、1750年代にマサチューセッツ最高裁判所が発給した援助令状を元に一般市民に対して捜査への「援助」を強要することができた。これらの援助令状は、発給に当たって捜査の対象や目的、その期間を特定する必要がない一般令状であったため、マサチューセッツの家財は常に強制的な捜査と押収の対象となりうる状態だった[13]

援助令状には「国王の死後6ヶ月」という有効期限があった。ジョージ2世が1760年10月に崩御したため、既存の令状は1761年4月に失効することになった。当局は援助令状を新王ジョージ3世の名の下に再発給することを要請したが、これに対し、ボストンの商人たちが公聴会の実施を求めた[14]。人の家は城塞である。家は、人に安らぎを与え、城塞の城主に対するがごとく、人を護るものである。しかるにこの令状が、もし合法と定められるのであれば、この城主の特権は徹底的に踏みにじられるだろう。官吏は、自分の望むときに我々の家に足を踏み入れてよいということになる。1761年2月のオーティスによる弁論から抜粋[15]

この時期海事法務官を代行[16]していたオーティスは当局側の弁護を要請されたがこれを拒否して離職、反対に、学友オクセンブリッジ・サッチャーと共に、貿易商たちの弁護を公益のための無償奉仕という形で買って出た。1761年2月、マサチューセッツ議会議事堂で開かれた公開討論では、司法長官として当局の弁護に立った旧師グリッドリーを向こうに援助令状に反対する主張を5時間に渡って論じた[17][18]

結局、オーティスらの主張は新主席判事ハッチンソンによって退けられたが、オーティスの弁論はジョン・アダムズを始めとする愛国派の人々に感銘を与え、結果としてアメリカ独立革命に一定の貢献を果たした[19][20]。アダムズは後にこう回想している。「オーティスは大火の種火だった。……幼き独立の気運はあの時あの場所で生まれたのである」[21]

この弁論によって一躍その名を知られるようになったオーティスは、同年5月、マサチューセッツ代表議会ボストン代表議員の一人に選出された[22]。以後、1769年まで続けて議会に席を占めることになる[23]
イギリス臣民の自由と権利自然状態にある人間となれば、何人といえども、私の同意なくして私から財産を取り上げることはできない。もし同意なく私の財産を取り上げるならば、その者は私の自由を侵害し、私を奴隷とする者である。


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