ジェイド・ウォリアー
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ジェイド・ウォリアー
Jade Warrior
ジェイド・ウォリアー(左から、グリン・ハヴァード、ジョン・フィールド、デイヴ・スタート)
基本情報
出身地 イギリス
ジャンルプログレッシブ・ロックシンフォニック・ロックワールドミュージック
活動期間1970年 - 2011年または2014年
レーベルヴァーティゴアイランド、Red Hot、Acme、Eclectic、WindWeaver Music
公式サイト ⇒www.jadewarrior.com

旧メンバーグリン・ハヴァード
ジョン・フィールド
デイヴ・スタート
トニー・デューイ
コリン・ヘンソン
デヴィッド・デューイ

ジェイド・ウォリアー[注釈 1](Jade Warrior)は、1970年に結成されたイギリスプログレッシブ・ロック・バンドで、元々はジュライという名前のバンドから発展した。創立メンバーは、トニー・デューイ(ギター。アンソニー・クリストファー・デューイ、1941年9月18日、西ロンドンのアクトン生まれ、1990年11月11日、イングランド・サマセットで死去)、ジョン・フィールド(フルート、パーカッション、キーボード。ジョン・フレデリック・フィールド、1940年7月5日、ミドルセックス州ハーロウ区生まれ)、グリン・ハヴァード(ボーカル、ベース。1947年2月15日、南ウェールズ・ナンティグロ生まれ)であった。トニー・デューイの弟であるデヴィッド・デューイは、ジェイド・ウォリアーのいくつかのアルバムに参加し、2008年の再結成コンサートを除いてジェイド・ウォリアーがこれまでに行ったすべてのライブで演奏した。彼は2021年12月1日に亡くなった。
略歴
結成まで

ジョン・フィールドとトニー・デューイは、1960年代初頭に工場で働いていたときに出会った(2人ともフォークリフトを運転していた)[1]。すぐに、彼らは共通の音楽的興味(ジャズアフリカの音楽、日本の音楽)を見つけ、楽器を演奏し始め(ジョンはコンガ一式、トニーはギターを型破りにチューニングしてオープンC調にした)、それぞれ4トラックのテープレコーダーを購入してマルチ・レイヤーやオーバーダブを伴う実験を始めた。フィールドによれば、そのプロセスは「……家の裏庭にあるようなもので大聖堂を建てようとする」ことと似ていたが、それでも結局のところ、ジェイド・ウォリアーのキャリアを通じて、彼らの音楽の青写真をその作品全体を通して形成していった[2]

1965年、2人はパトリック・ライオンズをボーカルに迎えたセカンド・ソーツというリズム・アンド・ブルース・グループを結成し、4曲入りEPをリリースした。一方、開発と並行して、トム・ニューマン(後のマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』におけるエンジニア)[1]、アラン・ジェームス、ピート・クック、クリス・ジャクソンがトムキャッツを結成した[3]。1965年に両バンドは解散し、ライオンズはアレックス・スピロプロスと(当時)デュオのニルヴァーナに加わり、5枚のLPをリリースした(ジェイド・ウォリアーのメンバーは1972年のアルバム『局部麻酔』にゲスト参加している)[2]。ニューマン、ジェームス、ジャクソン、ジョン・フィールド、トニー・デューイという新しいラインナップで再結成されたトムキャッツは1965年から1966年をスペインで過ごし、そこで4枚のEPをリリースして地元で大好評を博した(後にアクメ・レコードがそれらをセカンド・ソーツのEPを含めて1枚のLPとしてリリースした)。1966年、トムキャッツはイギリスに戻り、名前をジュライに変更し、サイケデリックポップ・ロックのコレクションである唯一の同名アルバムをリリースした(その後、いくつかの別バージョンとアウトテイクを加えて『Second of July』として再発されており、また異なるトラックリストを加えて『Dandelion Seeds』としても再発されている)[2]
ジェイド・ウォリアー

ジュライは1968年に解散し、トニーはその数年前に「Concrete and Clay」で全英ナンバーワンを獲得していた「ユニット4+2」のギタリストとしてギグを行うことになった。すでにラインナップにはベースのグリン・ハヴァードとドラムのアラン・プライスがいた。このバンドは基本的に、イギリス北部のクラブをツアーし、前述のヒット・レコードの成功を利用するために設計されたピックアップ・バンドであった。1、2か月後、デューイ、ハヴァード、プライスの3人はペルシャ(後のイラン)をツアーし、さまざまなナイトクラブで3か月間働いたが、一連の経営上の失敗で実質的に貧困状態となりイギリスへと戻った。しかし、その前に、デューイはハヴァードをジョン・フィールドに紹介し、デューイとフィールド自身の音楽プロジェクトにボーカルで貢献することを提案していた。ハヴァードとデューイがペルシャから帰国すると、彼らとフィールドは初期のジェイド・ウォリアーのアルバムにおける基礎を築く一連のデモの録音に着手した。トニーの弟(後にバンド・メンバー)であるデヴィッド・デューイの言葉を借りると、「トニーはグリン・ハヴァードとアラン・プライス[注釈 2]に出会ってバンドを結成しましたが、彼らはある種の金儲けのためにペルシャに行っていたため、誰もそれについてあまり言及しませんでした。それについて最も注目すべきことは、トニーが『ペルシャ脚』(静脈炎)と呼ばれる病気にかかったことで、そこからずっと彼を悩ませていました。1969年の終わり頃のことでした」[4]。フィールド、デューイ、ハヴァードは団結し、すぐにトニーとジョンがロンドンの演劇学校のために作曲したあるダンス・ドラマ (『火の鳥と鳩 (The Phoenix and the Dove)』) にちなんでジェイド・ウォリアーと名乗るようになった[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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