ジェイコブ・リース
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ジェイコブ・リースの肖像

ジェイコブ・リース(英語: Jacob August Riis[ri?s], 1849年5月3日 - 1914年5月26日)は、デンマーク系アメリカ人の「マックレーカー(Muckraker)」と呼ばれるジャーナリストの一人であり、社会改革論者、また社会派のドキュメンタリー写真家20世紀の転換期におけるアメリカの都市改革運動に大きく貢献した[1]社会改良主義運動を背景にジャーナリズムを通してスラム街の状況改善を訴えたほか、網版写真マグネシウムよるフラッシュ撮影などの新技術も積極的に活用した[2]
経歴
生い立ち

ジェイコブ・リースは1849年ユトランド半島の西側にあり、北海に面したデンマークの田舎町、リーベに生まれた[3]。父はニールス・エドワード・リース(Niels Edward Riis)、母はキャロライナ・リース(Carolina Riis、旧姓:Bendsine Lundholm)で15人兄弟(うち一人は孤児の姪を養育していた)の3人目の子供であった[4][5]。母は熱心なルーテル派の信者であり、父はラテン語学校の教頭を務める傍ら、大家族を養うための収入を補うべく、地方週刊紙の編集に携わっていた[3]。15人の中で20世紀まで生き延びることができたのはリースと一人の姉妹、そして里子の姪のみであった[6]

父が教師であったので学校に通うも、リースにとっては余り面白くなかった。しかし英語には興味を持っており、チャールズ・ディケンズの作品に惹かれたという[7]。彼の父親も彼にディケンズの雑誌『オール・ザ・イヤー・アラウンド(All the Year Round)』やジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説を読み、それを通して英語力を改善するよう言い聞かせた[8]

リースは幸せな子供時代を送ったが、一方で11歳の時、歳の若い兄弟であるセオドア(Theodore)が溺死するという悲劇も経験した。彼は母親の嘆きを忘れることはなかったという[9]

11歳から12歳のころ、彼は所持金を、家をきれいにするならばという条件で荒れ果てた家に住む貧しいリーベの家族に全て寄付した。彼らはそれを受け取って条件に応じたが、リースがこのことを母親に話すと、母親も手伝いに来た[10][9]

父はリースに専門職について欲しいと思っていたが[11]、強圧的な学校を嫌ったリースは早々に大工の徒弟奉公に入った[3]。16歳の時、エリザベス・ジョルツ(Elisabeth Gjortz)に恋をした。彼女はリースが見習いの大工として働いていた会社のオーナーの12歳になる養子であった。父親は彼のどぎまぎした恋心を認めず、大工としての見習い期間を終えるためにリースを無理矢理コペンハーゲンへと行かせた[12]。4年間の修行ののち、リースはギルドの資格を得て故郷に戻った[11]。帰郷したその日のうちに、彼はエリザベスに求婚するが、父親からつれなく断られ、絶望した彼はできるだけ彼女から離れるためにアメリカへの移住を決意した[7]。また、渡米を決意したもう一つの理由としては、不景気な田舎町では定職に就けなかったということもあったが[11]、このような経緯から1870年、21歳の春にリースはアメリカ合衆国へと渡った[13]
アメリカへの移住
時代背景

リースがアメリカに移住した時期は南北戦争終結から1890年ごろまでの「金ぴか時代」と呼ばれる時期にあたる。農業国から工業国へと転換したアメリカは経済発展と都市の繁栄を経験する一方で、政界や産業界では買収や汚職が蔓延していた。ニューヨークでは1811年の都市計画のもとマンハッタンメトロポリスとして大きく発展した。1876年にはセントラル・パークが開園し、1870年代にはグランド・セントラル駅メトロポリタン美術館、初期の摩天楼が次々に建設され、またロックフェラーヴァンダービルトカーネギーモーガンといった実業家は巨大な邸宅を構えて贅沢な生活を謳歌した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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