ジェイコブ・ドルソン・コックス
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アメリカ合衆国政治家ジェイコブ・D・コックスJacob D Cox

生年月日1828年10月27日
出生地 カナダモントリオール
没年月日1900年8月4日
死没地 アメリカ合衆国マサチューセッツ州グロスター
出身校オベリン大学
前職弁護士、軍人
所属政党共和党
配偶者ヘレン・クラリッサ・フィニー
第10代内務長官
在任期間1869年3月5日 - 1870年10月31日
大統領ユリシーズ・グラント
第10代オハイオ州知事
在任期間1866年1月8日 - 1868年1月13日
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ジェイコブ・ドルソン・コックス(Jacob Dolson Cox, 1828年10月27日 - 1900年8月4日)は、アメリカ合衆国法律家政治家[1]共和党に所属し、1865年からオハイオ州知事を務め、1869年からアメリカ合衆国内務長官を務めた[1]。他にウォバシュ鉄道社長、シンシナティ大学学長などの要職を歴任した[1]南北戦争では1861年に志願して北軍に従軍し、翌年から少将として戦った[1]。南北戦争に関する著作がある[1]
生い立ちと初期の経歴

1828年10月27日、コックスはカナダモントリオールにおいて誕生した。両親はアメリカの出身であったが、モントリオール・ノートルダム聖堂の建造のためにカナダに一時居住していた。父親は聖堂の天井部分の建設を監督していた。一家は、聖堂の天井部分の建設が完了した1829年にアメリカに帰国し、ニューヨーク市内で暮らした。コックスはコロンビア・カレッジの学生を個人教師として、主に読書によって初等知識をつけた。本格的な教育を受け始めたのは14歳からであり、コックスは法律事務所の事務員として働いた。コックスは16歳のときに証券仲買会社に入り、簿記の知識を身につけた。

コックスは船乗りとなることを望んでいたが、両親はコックスを会衆派教会へと入れさせ、聖職者となるための教育を受けさせた。コックスはサミュエル・コクラン牧師やチャールズ・フィニー牧師の下で学び、彼らの影響を受けた。コックスはフィニー牧師が学長を務めるオベリン大学へ進学し、生涯にわたる友好関係を築いた。

コックスはオベリン大学において、チャールズ・フィニー学長の長女ヘレンと知り合った。2人は1849年に結婚した。当時19歳のヘレンは未亡人であり、幼い息子が1人居た。2人は学長の自宅で生活した。だがコックスは義父フィニーと、神学の論争により次第に疎遠になっていった。コックスは1851年に神学の学位を取得し、オベリン大学を卒業した[2]

コックスは法律を学び、1853年に弁護士として認可を受けた。コックスはオハイオ州ウォレンで学校組織の最高責任者となった。コックスは強烈な奴隷廃止論者であった。1855年、コックスはオハイオ州において共和党の組織立ち上げを支援した。コックスはウォレン近郊の郡を遊説し、共和党候補への支持を呼びかけた。コックスは1960年にオハイオ州上院議員となった[3]。コックスは州上院議員ジェームズ・ガーフィールドや州知事サーモン・チェイスと政治的な同盟関係を結んだ。コックスは州議会において、1861年4月23日にオハイオ州民兵での任務を命じられた。コックスはサムター要塞で2週間を過ごし、軍事科学を学んだ。コックスは1861年5月17日に合衆国志願兵の准将に任命された。
南北戦争南北戦争期のコックス

南北戦争が勃発したとき、コックスは健康を害しており、また養うべき子供を6人抱えていた。だがコックスは連邦政府での活動に従事することを選択し、オハイオ州志願兵に参加した[3]。まずコックスは兵士募集の任務を割り当てられた。コックスはコロンバス近郊で兵士を募り、オハイオ方面部でカノワ旅団を組織した。コックスの旅団はバージニア西部方面部に組み込まれ、ジョージ・マクレラン少将の下についた。コックスの旅団はでのカノワ川での初期の軍事作戦にあたり、戦闘で勝利を収めた。1862年8月、コックスの旅団はワシントンD.C.へ移り、ジョン・ポープバージニア軍に合流した。だが第二次ブルランの戦いではバージニア軍の後方についたため、実際の戦闘には参加しなかった。メリーランド方面作戦が始まると、コックスの旅団はポトマック軍第9軍団に加わり、カノワ師団となった。

1862年9月、軍団を指揮するジェシー・リー・リノ少将がサウスマウンテンの戦いで戦死すると、コックスは第9軍団の指揮を引き継いだ。コックスはアンブローズ・バーンサイド少将に対し、第9軍団の正式な指揮官となってくれるよう正式依頼を行った。だがバーンサイド少将は既に2つの軍団の指揮を任されていたため、その依頼を断った。その一方、バーンサイド少将はコックスについて、コックスの軍事経験では軍団の指揮は荷が重過ぎると判断し、師団の指揮に戻るよう要求した。バーンサイド少将は、第9軍団の指揮を一時肩代わりした。コックスはバーンサイド少将の下につき、アンティータムの戦いを戦った。アンティータムでの戦いでは北軍が勝利を収めたが、バーンサイド少将の判断ミスにより「バーンサイドの橋」で大きな損害を残した。

アンティータムの戦い後の1862年10月6日、コックスは少将に昇進した。だが連邦上院は少将の数が多すぎると判断し、1863年3月にコックスの昇進を取り消した。コックスはその後、1864年12月7日に再び少将への昇進し、承認を受けた。コックスは1863年のほとんどをオハイオ方面部で平穏に過ごし、オハイオ軍管区とミシガン軍管区での指揮を担当した。

1864年から1865年にかけてのアトランタ方面作戦フランクリン・ナッシュビル方面作戦カロライナ方面作戦では、コックスはオハイオ軍ジョン・マカリスター・スコフィールド少将の下につき、第23軍団の第3師団を指揮した。コックスは1864年11月第二次フランクリンの戦いで北軍の戦線の中心を守り、広く賞賛を受けた。南北戦争終戦時、コックスはノースカロライナ方面部において第23軍団を指揮していた。
オハイオ州知事

コックスは軍を退いた後の1866年1月1日オハイオ州知事に選出された。


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