ジェイク・ロバーツ
2013年
プロフィール
リングネームジェイク "ザ・スネーク" ロバーツ
ジェイク・スミス・ジュニア
ザ・テキサン
エル・ディアブロ
本名オーレリアン・ジェイコブ・スミス・ジュニア
ニックネームザ・スネーク
蛇男
身長195cm
体重120kg(全盛時)
誕生日 (1955-05-30) 1955年5月30日(68歳)
出身地 アメリカ合衆国
テキサス州
クック郡ゲインズビル
トレーナーグリズリー・スミス
バック・ロブレイ
ムース・モロウスキー
ミスター・レスリング2号[1]
デビュー1975年[1]
引退2011年[1]
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ジェイク "ザ・スネーク" ロバーツ(Jake "The Snake" Roberts、本名:Aurelian Jacob Smith, Jr.、1955年5月30日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州ゲインズビル出身。
1980年代のスーパースターの一人で、DDTの開発者としても知られる[1]。父親の "グリズリー" ジェイク・スミス、異母弟のカウボーイ・サム・ヒューストン、異母妹のロッキン・ロビンも元プロレスラー[1]。 父ジェイク・スミスらのトレーニングを受け、1975年5月13日にデビュー[2]。アメリカ南部から中西部、太平洋岸北西部まで各地を転戦してキャリアを積み、1979年1月には国際プロレスの『新春パイオニア・シリーズ』に初来日。アレックス・スミルノフが外国人エースを務めた同シリーズにおいて、1月16日に広島県立体育館にてラッシャー木村と金網デスマッチを行っている[3]。シリーズ最終戦となる29日には勝田市総合体育館において、前年6月にデビューした阿修羅・原との新鋭対決も行われた[3]。 帰国後はスチュ・ハートが主宰していたカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングで活動[2]。ベビーフェイスのポジションでミスター・サクラダやミスター・ヒト、ネイル・グアイ、キューバン・アサシン、ダイナマイト・キッドらと対戦し[4]、1979年4月9日にビッグ・ダディ・リッターを破ってカルガリー版の北米ヘビー級王座を獲得[5]。同年7月13日には、ハーリー・レイスが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[6]。 1980年2月の国際プロレス『スーパー・ファイト・シリーズ』への再来日では、同時参戦した先輩格のマイク・ボイエッティ[7]と共に、ロックバンドのキッスを真似た白塗りのメイクアップを施しており、日本に登場した初のペイントレスラーとなった[8]。キャリア不足だったこともあって試合においては目立った活躍は果たせなかったものの、長身を活かしたスケールの大きなファイトスタイルとレスリングセンスの良さは当時から高い評価を獲得しており[9]、同年7月の『ビッグ・サマー・シリーズ』への来日時には、木村、大木金太郎、アニマル浜口、マイティ井上、ジプシー・ジョー、スパイク・ヒューバーなどが出場したバトルロイヤルにおいて優勝を飾っている[10]。 アメリカでは、父がブッカーを務めていたビル・ワット主宰のMSWAを主戦場とし、1980年10月8日にルイジアナ州シュリーブポートにてケン・マンテルからルイジアナ・ヘビー級王座を獲得[11]。1981年5月31日にも同所にてザ・グラップラーからミッドサウス版の北米ヘビー級王座を奪取[12]。アーニー・ラッド、スーパー・デストロイヤー、ポール・オーンドーフともタイトルを争った[13]。その後はジム・クロケット・ジュニアが運営していたNWAのミッドアトランティック地区に進出、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦したが[14]、中堅ベビーフェイスのポジションからオーバーすることはできなかった[15]。 1982年8月、ヒールに転向してフロリダ地区に参戦し、ケビン・サリバンやジム・ガービンと結託してバリー・ウインダムとの抗争を展開[16]。このヒールターンを機に、その独特の滑るような動きと細身の体型、そして無表情で陰湿なキャラクターから、「ザ・スネーク」の異名を付けられるようになる。以降、冷血系のヒールとして頭角を現し、ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは1983年11月6日にロニー・ガービンからNWAナショナルTV王座を奪取[17]。
来歴