シー・ユー・チェン(Sy Chen、帰化後姓名:立川サイ)は、多数の企業ブランディングを手掛けるブランドコンサルタント会社、株式会社シー・アイ・エー (CIA Inc.) の創立者兼Chief Integrating Officer及びThe Brand Architect Group日本オフィスの創立者である。北京で生まれ、2014年(平成26年)に日本国籍を取得[1]した。 1947年に北京の豪商の家で生まれ、5歳で両親とともに東京へ移住する。父親は貨物船を所有し、東南アジアを相手に貿易商を営んだ。共産党軍の進軍により香港に逃れ、東京に来るまで九龍デヴォン・ロードの邸宅で暮らした[1]。香港の事業を長男に預けて事業拡大のため日本に移住した父母に伴い来日、映画『陽のあたる坂道』の撮影にも使われた田園調布の洋館に住まい、田園調布小学校へ入学し、英語を身につけるために5年生で調布のアメリカン・スクールに転校した[1]。13歳のとき父が心臓麻痺で急死し[1]、母親が投資ビジネスなどを展開し引き継ぐ[2]。学友とコピーバンドで活動した60年代半ばに、成毛滋の「ザ・フィンガーズ」に誘われて加わり、上智大学国際学部に通いながらバンド活動を続けたが解散する。大学を中退して渡米するとヒッピー文化の洗礼を受け、帰国後にミュージカル『ヘアー』日本公演のメンバーとなる[2]。 1970 - 80年代に、日本のファッションを引率したアルファキュービック
経歴
東京へ戻ると1984年に株式会社シー・アイ・エー (CIA Inc.) を設立する。バブル景気の波に乗り、設立当初はイギリス人建築家ナイジェル・コーツ
を起用した六本木のレストラン「メトロポール」や「小樽ホテル」などの空間プロデュースを中心に活動し、1990年代前半から「ワイルドブルーヨコハマ」や福岡ドームスポーツバー「ビッグライフ」など大規模商業施設のプロジェクトを手掛けたが、バブル景気崩壊により休業する[3][4]。景気急落で不動産価格が下落すると海外企業の日本進出が増え[4]、1990年代後半から2000年代前半にギャップやナイキなど海外リテーラーの日本進出店舗展開や、ユニクロの東証一部上場に向けたマーケティング戦略、青山フラワーマーケットのブランド構築などを手掛ける。
のちに上島珈琲店、出光興産、三菱東京UFJ銀行などのブランド開発や再構築、大崎ThinkParkなどの都市再開発ブランディング、クロスカンパニーの郊外マーケティング戦略構築、日本初の耐火木造商業施設Southwood、などを手掛け、格安航空会社で注目されているPeach Aviationの総合ブランディングでアメリカ人建築家ニール・ディナーリを起用して機体をデザインした。現在はサクラクレパスの新文具ブランド「サクラクラフトラボ」のブランド&プロダクト開発、出光興産の合弁ブランド開発、Globe Specsの店舗設計、NTTのテックシティ開発、などを手掛ける。
エピソードらとバンドで活動し、成毛滋らのバンド「ザ・フィンガーズ」にはベーシストとして参加した。