シール・クーフ
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アサドゥッディーン・シールクーフ
続柄
サラーフッディーン叔父

全名アサドゥッディーン・シールクーフ・イブン・シャージー
出生不詳
ドヴィーン
死去1169年3月22日[1]
カイロ
埋葬マディーナ
子女アル=カーヒル・ナスィールッディーン・ムハンマド
父親シャージー・イブン・マルワーン[2]
母親不詳
役職ダマスカス総督、ファーティマ朝宰相など
宗教スンナ派イスラーム
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アサドゥッディーン・シールクーフ(アラビア語: ??? ????? ?????? ?? ????‎ ?asad ad-d?n ??rk?h bin ????, クルド語: ?irkuh または Sherko, 生年不明 - 1169年3月23日)は、エジプトシリアで活躍したセルジューク朝およびザンギー朝武将クルド人アイユーブ朝創始者であるサラーフッディーン(サラディン)の叔父(サラディンの父・ナジムッディーン・アイユーブの弟)。アサドゥッディーン(??? ?????‎ ?asad ad-d?n)という彼のラカブ(尊称)はアラビア語で「信仰/宗教の獅子」という意味であり[3]、シール・クーフ(?irkuh)というイスム(個人名)はクルド語で「山の獅子」という意味である。
生涯

クルド人シャージーの息子として生まれる。兄はナジュムッディーン・アイユーブ。シールクーフの若いころのことは分かっていないが、一家はクルドのラワーディー族の一員で、アルメニアのドヴィーンの名家であると伝わる[1]。ただし、彼らが名家であったとするのは後代の言い伝えであり真偽は分からない[4]。あるいは、シャージー、アイユーブ、シールクーフともにシャッダード朝に仕えていたとも推測される[5]

シャッダード朝の弱体化とセルジューク朝勢力の伸長による政情の不安定化によって、父親シャージーはシールクーフとアイユーブを連れて旧知の友人、ムジャーヒドゥッディーン・ビフルーズを頼った[6]。ビフルーズはバグダードの軍事長官(シフナ)であり、シャージーにティクリートの代官(ワーリー)職を任せ[4]、父の死後にアイユーブはその職務を引き継いだ。
ザンギー朝への仕官

1137/8年、シールクーフは口論の最中にキリスト教徒の役人を殺してしまい、ビフルーズの指示で一家ともどもティクリートを去ることを余儀なくされる[6][3][1]。ビフルーズが彼らに退去を命じた理由を、佐藤次高氏は事件がセルジューク朝当局の耳に入ることを恐れたのだとし[3]、アンヌ=マリー・エッディはビフルーズが元キリスト教徒の解放奴隷であり、元同宗徒に同情したか、あるいはティクリートがアイユーブとシールクーフの影響下に置かれてしまうことを恐れたからだろうかと推測している[6]

いずれにせよ、彼らは一家ともどもモスルへと向かった。かつてカリフムスタルシドに敗れて追われていたイマードゥッディーン・ザンギーを助けた縁があったからである。ザンギーは彼らを暖かく迎え入れ、イクターを与えてシールクーフとアイユーブを軍団長に任じた[1][7][8]。兄弟はそれぞれザンギーの息子たちに仕え、シールクーフがヌールッディーン・マフムード、アイユーブがサイフッディーン・ガーズィーに伺候したという[9]
ザンギー朝継承の混乱とヌールッディーン期のシールクーフ

1146年にザンギーが暗殺されると、ザンギー朝の後継をめぐって複雑な交渉が行われた。この隙を見て、ザンギー朝と敵対していたブーリー朝ダマスカスのアミール、ムイーヌッディーン・ウヌルはバールベクを攻撃し、占領する。兄アイユーブはウヌルに降伏して彼に仕えることとなったが、シールクーフは一旦兄と袂を分かち、ザンギー生前と同じく引き続きヌールッディーンに仕えた。ザンギー朝政権はモスルのサイフッディーンとアレッポのヌールッディーンに分裂したが、シールクーフはサイフッディーン側の有力者ジャマールッディーンと交渉し、兄弟間の会合を設けることに成功した。この会合により、二政権間の勢力圏の境界とサイフッディーン優位での両政権の併存が認められた[10]。もとよりシールクーフはザンギー朝内での有力者であったが、1149年のイナブの戦いでの活躍でヌールッディーンの信頼を得て[11]、ウヌル死後のダマスカス内で力をつけていた兄アイユーブと諮り、1154年、ヌールッディーンのダマスカス併合を成功させた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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